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ネットにおける「感想」と「批評」の差異もしくは倫理 [ごあいさつ]
最近になって再びブログ熱が高まってきたこともありますが、このくらい記事が増えてくると、少しこのブログの性格というか、僕のスタンスについてまとめたほうがいいかと思いました。相変わらず訪れてくださる方は少ないのですがorzでも、きっと趣味の合う方が多いのではないかと信じています。安易にアクセス数を増やすことは問題も大きいですし、意識してません。面倒なだけかもしれませんがw
僕は「感想」もしくは「レビュー」と、「批評」は決定的に違うと考えています。
もちろんこれは用語の定義の問題ですが、一般的なイメージレベルでもやはり違うと言っていいでしょう。
芸術作品もしくはサブカルチャーを含めた「コンテンツ」について、受け手が感想を持つのは個人の自由です。というか、コンテンツの制作者はエンドユーザの感想を原理的に期待しているというか、個人レベルでの評価を得ないことにはコンテンツとして売れません。だから、ごくまれですが、「作品を悪く言うのは許せない!」という意見はこの点については端的に誤りです。悪評がなければ好評もありません。
ですが、個人レベルで感想を持つことと、その感想をネットで、たとえ口コミレベルでも全世界に向けて発信することはその性格上違う行為です。
どんな気軽な口コミやつぶやきでも、その意見は他のユーザの意思決定に影響を与えうる存在です。もちろん口コミを読むユーザはバイアスをかけ、あるいは除去し、自分にとって最も有益な情報を取捨選択しますが、それでも目に入った情報は端的にその人の脳内に一時的にせよ蓄積されます。だから、ネット上で感想を語るのはこういう危険性を考えるべきです。最低限、これは「感想」であって、一個人の趣味や嗜好にくくられるものであることは明記すべきです。
といいつつ、僕の過去の記事はそこまでおそらく考えていないw
まあ、原則論です。
その一方、少なくとも僕の考える意味においての「批評」とは、個人の趣味性を超えて、作品の普遍的な特性を指摘しつつ、その評価を広く一般化して客観性を持つものを目指すものです。だから、「批評」を意識する場合は、たとえどんな媒体でも、その作品における技法や表現の具体例を分析して、過去の作品群との比較検討を経て、歴史的な評価まで意識したほうがいいと思っています。できれば「批評」そのものがその筆者の個性を反映した「作品」として流通するのが理想ですが、そこまで書けているとは思っていませんw
だから、個人の趣味についてはある意味反論不可能ですが、「批評」を名乗った瞬間、具体的な根拠と論理をもって問題点を指摘し、反論することはもちろん可能であり、そうした反論が「批評」の客観性を保証するものであると思います。
だから、少なくとも僕にとって「批評」を名乗って記事を公開する時点で、無数の突込みを覚悟していますwその意味である意味僕はマゾヒストかもしれませんwというか、むしろ、僕の思考が自己完結しないための外部機関として他者の存在は重要です。
あと、僕の意見について感想を持たれるのは自由であることはもちろんですが、僕の意見を頭から全否定するような文章をコメントとして残す場合は、当然の倫理的態度として、せめてコメントに具体的な根拠を明示し、僕による反論を可能にするための情報としてニックネームくらい残すべきです。「名無し」でもいいですw
こんなことをわざわざ断ることはないのですが、過去に別の場所でいやな経験がありますので。
もちろん、僕の意見に何らかの情報を付け加えたり、また、僕の意見に対する「感想」をコメントとして残していただけるのは大歓迎です。というか、たまにでも絡んでいただけないとさびしくてしょうがないw
この場合、僕の意見についてのコメントも「感想」であるので、厳密にはその「感想」についても他者の意思決定に影響する可能性を考慮すべきですが、それは考えませんwというか、無視!ネットでそのレベルの厳密さを要求していたら、情報発信できません。方法的に無視です。第一無料といえども僕がso-netに接続料を払ってやっているブログですので、そうしたブログの方向性はある程度僕自身が決定してもいいと思っています。
あと、たまにエロ系のトラックバックもありますが、晒しの意味を込めて放置w数が少ないので実害がないということもありますし、こういうブログにエロコメはかなり空気を読んでいないですしw
過去の記事はほとんど映画!映画!映画!!ですが、過去においても僕の興味の範囲は映画には限定されていないですし、少なくともこれからは様々なジャンルに手を出すつもりです。「けいおん!」の記事も書きましたしwネット環境についての考察も書きたいと思っています。
というわけで、僕の戯言をご笑納ください。
僕は「感想」もしくは「レビュー」と、「批評」は決定的に違うと考えています。
もちろんこれは用語の定義の問題ですが、一般的なイメージレベルでもやはり違うと言っていいでしょう。
芸術作品もしくはサブカルチャーを含めた「コンテンツ」について、受け手が感想を持つのは個人の自由です。というか、コンテンツの制作者はエンドユーザの感想を原理的に期待しているというか、個人レベルでの評価を得ないことにはコンテンツとして売れません。だから、ごくまれですが、「作品を悪く言うのは許せない!」という意見はこの点については端的に誤りです。悪評がなければ好評もありません。
ですが、個人レベルで感想を持つことと、その感想をネットで、たとえ口コミレベルでも全世界に向けて発信することはその性格上違う行為です。
どんな気軽な口コミやつぶやきでも、その意見は他のユーザの意思決定に影響を与えうる存在です。もちろん口コミを読むユーザはバイアスをかけ、あるいは除去し、自分にとって最も有益な情報を取捨選択しますが、それでも目に入った情報は端的にその人の脳内に一時的にせよ蓄積されます。だから、ネット上で感想を語るのはこういう危険性を考えるべきです。最低限、これは「感想」であって、一個人の趣味や嗜好にくくられるものであることは明記すべきです。
といいつつ、僕の過去の記事はそこまでおそらく考えていないw
まあ、原則論です。
その一方、少なくとも僕の考える意味においての「批評」とは、個人の趣味性を超えて、作品の普遍的な特性を指摘しつつ、その評価を広く一般化して客観性を持つものを目指すものです。だから、「批評」を意識する場合は、たとえどんな媒体でも、その作品における技法や表現の具体例を分析して、過去の作品群との比較検討を経て、歴史的な評価まで意識したほうがいいと思っています。できれば「批評」そのものがその筆者の個性を反映した「作品」として流通するのが理想ですが、そこまで書けているとは思っていませんw
だから、個人の趣味についてはある意味反論不可能ですが、「批評」を名乗った瞬間、具体的な根拠と論理をもって問題点を指摘し、反論することはもちろん可能であり、そうした反論が「批評」の客観性を保証するものであると思います。
だから、少なくとも僕にとって「批評」を名乗って記事を公開する時点で、無数の突込みを覚悟していますwその意味である意味僕はマゾヒストかもしれませんwというか、むしろ、僕の思考が自己完結しないための外部機関として他者の存在は重要です。
あと、僕の意見について感想を持たれるのは自由であることはもちろんですが、僕の意見を頭から全否定するような文章をコメントとして残す場合は、当然の倫理的態度として、せめてコメントに具体的な根拠を明示し、僕による反論を可能にするための情報としてニックネームくらい残すべきです。「名無し」でもいいですw
こんなことをわざわざ断ることはないのですが、過去に別の場所でいやな経験がありますので。
もちろん、僕の意見に何らかの情報を付け加えたり、また、僕の意見に対する「感想」をコメントとして残していただけるのは大歓迎です。というか、たまにでも絡んでいただけないとさびしくてしょうがないw
この場合、僕の意見についてのコメントも「感想」であるので、厳密にはその「感想」についても他者の意思決定に影響する可能性を考慮すべきですが、それは考えませんwというか、無視!ネットでそのレベルの厳密さを要求していたら、情報発信できません。方法的に無視です。第一無料といえども僕がso-netに接続料を払ってやっているブログですので、そうしたブログの方向性はある程度僕自身が決定してもいいと思っています。
あと、たまにエロ系のトラックバックもありますが、晒しの意味を込めて放置w数が少ないので実害がないということもありますし、こういうブログにエロコメはかなり空気を読んでいないですしw
過去の記事はほとんど映画!映画!映画!!ですが、過去においても僕の興味の範囲は映画には限定されていないですし、少なくともこれからは様々なジャンルに手を出すつもりです。「けいおん!」の記事も書きましたしwネット環境についての考察も書きたいと思っています。
というわけで、僕の戯言をご笑納ください。
カルチャーにおける歴史的な視点 [音楽]
ビートルズ解散40周年ということで、巷にはビートルズネタが出回ってますね。appleが「重大発表!」と告知したのもビートルズの曲をiTunesで配信でしたし。ちょっと思いついたのでたまにはビートルズを切り口にロック、ポップミュージックについて少しだけ書いてみます。ちなみに僕は楽理のことはまったくわかりません。五線譜がろくに読めないどころか、コードすらほとんど知りませんw演奏できる楽器なんてピアニカとリコーダーレベルwだから重度のビートルズマニアの方や、音楽関係の方は割り切っていただけると助かります。そしてこの文章は主にビートルズをあまり聞いたことのない若い人に向けています。
いわゆるロック・ミュージックのルーツがどこにあるのか、諸説はあると思いますが、基本はアメリカの黒人音楽、特にブルースにあることは一般的な認識でしょう。「blues」と綴るので、ブルーズと濁らせますね。アメリカは今でこそ人種のるつぼとか、人種のサラダボウルなんていっていますが、基本はイギリスのピューリタンが移民して作った国。原住民を騎兵隊が迫害して黒人奴隷を搾取し続けた白人支配の国。もちろんこんな簡単にくくれないけど、音楽についてはこれで十分。その抑圧構造の中、鉄道建設など厳しい肉体労働を強いられた黒人たちの音楽がブルースです。アコースティックギター一本を携えて身近な出来事を歌うスタイル。ロバート・ジョンソンなんて伝説的な人がいますね。十字路で悪魔に魂を売ったという伝説が生まれるほどすごいギターテクを持っていた人。(この人は27歳で亡くなっています。ミュージシャンで27歳で亡くなった人は多いです。ジャニス・ジョップリンとか、ジミー・ヘンドリックスとか、ブライアン・ジョーンズもそう。)この黒人の白人に対するカウンターとしての音楽を白人が受容する過程が実は20世紀以降のポップ・ミュージックのメインストリームです。ジャズもそうだし、ヒップホップだってそうした側面が濃厚。ラップにあこがれるのはいいけど、ここを踏まえずに安易にヒップホップをまねてしまうアーティストはいかがわしいと個人的に思う。ロックももちろん黒人の音楽を摂取した白人の一つの回答である側面がある。エルヴィス・プレスリーの登場がもちろん大きかったはずだけど、ビートルズが白人の文脈に黒人音楽を置いた功績はものすごく大きい。ビートルズの、特に初期の曲を今聞くと古臭く感じるのはブルースの影響を色濃く持っているからだと思う。チャック・ベリーがいなかったらジョン・レノンもいなかったかもしれない。
また、ビートルズが今現在のポップ・ミュージックの一般的な在り方を決定づけたことは知っておきたい。アーティストが自分で作詞、作曲をするのはビートルズ以前には極めてまれだったし、MTV以降のPVの文化もビートルズが先鞭をつけたもの。「リボルヴァー」以降レコーディング・ミュージシャンとして活動し、ライブ活動を基本的に行わなくなったことがレコードやCDで音楽を楽しむ環境に貢献しているし、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」でコンセプト・アルバムの概念も作ったし。アリーナ公演だってビートルズが最初のはず。音楽性についてもクラシックの世界から評価されたバンドだし、ストリングスを取り入れたりしている。「dizzy miss lizzy」でハード・ロックの領域を切り開いてもいる。聞くところによると「yesterday」のカバーは3000曲以上あるとか。また、社会的影響力もすごかった。ドラッグ・カルチャーの立役者だし、ヒッピー・ムーブメントの犯人でもある。今でこそ優等生的なイメージがあるけど、少なくとも日本では来日時、佐藤栄作さんみたいな人が不良の音楽扱いして武道館のような神聖な場所で公演するのは問題みたいな発言をしたそうだし。「反戦」のメッセージは単にアーティストの理想論を超えてアメリカやイギリスみたいな国ではパブリック・エネミー扱い。1989年のチェコスロバキアでのビロード革命で民衆に歌われたのが「hey jude」。一アーティストを超えてその辺の政治家なんて比較にならない影響力。録音技術の向上にだって少なからぬ貢献をしている。「サージェント・ペパーズ」の当時は8チャンネルのミキサーしかなかった。その8チャンネルだって4チャンネル×2の代物。それでも多重録音が可能になったおかげで「サージェント・ペパーズ」が生まれた。クィーンの「ボヘミアン・ラプソディー」の時でも16チャンネルくらいだったはず。それであの複雑な音を作ったのも凄い。
ビートルズを聞くことをおっさんのノスタルジーの発露扱いするのは簡単だけど、そういう扱いをするその人自身が聞いている音楽からビートルズの影響を取り除くことはできない。ビートルズはロック・ミュージックの大成者であり、ある意味、ビートルズの解散でロックは終わっているということも言えるかもしれない。
この辺で僕個人のビートルズについての私見を付け加えます。ビートルズの特徴としてポールとジョンのソングライティングもあるけど、やはりメンバー4人が高いレベルで作曲ができることがある。ジョージやリンゴの曲もとてもいい。昔のライブ映像を見ると、ビートルズのメンバーは皆声の声域が似ている気がする。もちろんポールのハイトーンボイスとかあるけど、普通に歌っているときは4人誰もが歌える。でも僕なんかが歌ってみるとキーが思ったより高くてびっくりするけどwあとリンゴのドラムが結構ヘビー。アルバムではかすみがちだけど。よく「ビートルズか、ストーンズか」論争があるけど、少なくとも日本の音楽の教科書にストーンズの曲が載ることは考えられない。中学生が「サティスファクション」とか歌っていたらまずいwストーンズの個性の問題だけではなく、バンドの影響力の問題。
もうあまり書くこともない気がするのでこのくらいでまとめ。何につけても歴史的な視点は重要。音楽でもそうだし、ファッションのような世界でも、例えばココ・シャネルのような人の影響とかを考えるといろいろ見えてくる。コミックの世界で手塚治虫はもちろん超重要人物だけど、梶原一騎とかの劇画の開拓者や、大友克洋の影響とか、ある意味誤解を恐れずに言うと吾妻ひでおがオタク文化に与えた影響とか、無視できるはずがない。ビートルズを聞くことは、音楽を楽しむ意味はもちろん、ポップ・ミュージックの輪郭を自分の中で描く行為でもある。
ちなみに僕は「a day in the life」が好きです。「while my guiter gently weeps」も泣ける。「across the univers」とかカラオケで歌うしw「she loves you」をシャウトしたりもするw「wiht a little help from my friends」みたいな曲も大好きだし、「the long and winding road」に聞きほれたりもする。あ、「yellow submarine」だってあるし、昔は好きじゃなかったけど、「ob-la-di,ob-la-da」は今は好き。というか、はずれの曲を思いつけない。今でも何を聞いていいかわからないときはとりあえずビートルズをかけます。
もしラウンド型のサングラスをかけることがあったら、「ジョン・レノンかよ!」というつっこみに、「違う、アンディ・パートリッジだ!」と反論したいw
いわゆるロック・ミュージックのルーツがどこにあるのか、諸説はあると思いますが、基本はアメリカの黒人音楽、特にブルースにあることは一般的な認識でしょう。「blues」と綴るので、ブルーズと濁らせますね。アメリカは今でこそ人種のるつぼとか、人種のサラダボウルなんていっていますが、基本はイギリスのピューリタンが移民して作った国。原住民を騎兵隊が迫害して黒人奴隷を搾取し続けた白人支配の国。もちろんこんな簡単にくくれないけど、音楽についてはこれで十分。その抑圧構造の中、鉄道建設など厳しい肉体労働を強いられた黒人たちの音楽がブルースです。アコースティックギター一本を携えて身近な出来事を歌うスタイル。ロバート・ジョンソンなんて伝説的な人がいますね。十字路で悪魔に魂を売ったという伝説が生まれるほどすごいギターテクを持っていた人。(この人は27歳で亡くなっています。ミュージシャンで27歳で亡くなった人は多いです。ジャニス・ジョップリンとか、ジミー・ヘンドリックスとか、ブライアン・ジョーンズもそう。)この黒人の白人に対するカウンターとしての音楽を白人が受容する過程が実は20世紀以降のポップ・ミュージックのメインストリームです。ジャズもそうだし、ヒップホップだってそうした側面が濃厚。ラップにあこがれるのはいいけど、ここを踏まえずに安易にヒップホップをまねてしまうアーティストはいかがわしいと個人的に思う。ロックももちろん黒人の音楽を摂取した白人の一つの回答である側面がある。エルヴィス・プレスリーの登場がもちろん大きかったはずだけど、ビートルズが白人の文脈に黒人音楽を置いた功績はものすごく大きい。ビートルズの、特に初期の曲を今聞くと古臭く感じるのはブルースの影響を色濃く持っているからだと思う。チャック・ベリーがいなかったらジョン・レノンもいなかったかもしれない。
また、ビートルズが今現在のポップ・ミュージックの一般的な在り方を決定づけたことは知っておきたい。アーティストが自分で作詞、作曲をするのはビートルズ以前には極めてまれだったし、MTV以降のPVの文化もビートルズが先鞭をつけたもの。「リボルヴァー」以降レコーディング・ミュージシャンとして活動し、ライブ活動を基本的に行わなくなったことがレコードやCDで音楽を楽しむ環境に貢献しているし、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」でコンセプト・アルバムの概念も作ったし。アリーナ公演だってビートルズが最初のはず。音楽性についてもクラシックの世界から評価されたバンドだし、ストリングスを取り入れたりしている。「dizzy miss lizzy」でハード・ロックの領域を切り開いてもいる。聞くところによると「yesterday」のカバーは3000曲以上あるとか。また、社会的影響力もすごかった。ドラッグ・カルチャーの立役者だし、ヒッピー・ムーブメントの犯人でもある。今でこそ優等生的なイメージがあるけど、少なくとも日本では来日時、佐藤栄作さんみたいな人が不良の音楽扱いして武道館のような神聖な場所で公演するのは問題みたいな発言をしたそうだし。「反戦」のメッセージは単にアーティストの理想論を超えてアメリカやイギリスみたいな国ではパブリック・エネミー扱い。1989年のチェコスロバキアでのビロード革命で民衆に歌われたのが「hey jude」。一アーティストを超えてその辺の政治家なんて比較にならない影響力。録音技術の向上にだって少なからぬ貢献をしている。「サージェント・ペパーズ」の当時は8チャンネルのミキサーしかなかった。その8チャンネルだって4チャンネル×2の代物。それでも多重録音が可能になったおかげで「サージェント・ペパーズ」が生まれた。クィーンの「ボヘミアン・ラプソディー」の時でも16チャンネルくらいだったはず。それであの複雑な音を作ったのも凄い。
ビートルズを聞くことをおっさんのノスタルジーの発露扱いするのは簡単だけど、そういう扱いをするその人自身が聞いている音楽からビートルズの影響を取り除くことはできない。ビートルズはロック・ミュージックの大成者であり、ある意味、ビートルズの解散でロックは終わっているということも言えるかもしれない。
この辺で僕個人のビートルズについての私見を付け加えます。ビートルズの特徴としてポールとジョンのソングライティングもあるけど、やはりメンバー4人が高いレベルで作曲ができることがある。ジョージやリンゴの曲もとてもいい。昔のライブ映像を見ると、ビートルズのメンバーは皆声の声域が似ている気がする。もちろんポールのハイトーンボイスとかあるけど、普通に歌っているときは4人誰もが歌える。でも僕なんかが歌ってみるとキーが思ったより高くてびっくりするけどwあとリンゴのドラムが結構ヘビー。アルバムではかすみがちだけど。よく「ビートルズか、ストーンズか」論争があるけど、少なくとも日本の音楽の教科書にストーンズの曲が載ることは考えられない。中学生が「サティスファクション」とか歌っていたらまずいwストーンズの個性の問題だけではなく、バンドの影響力の問題。
もうあまり書くこともない気がするのでこのくらいでまとめ。何につけても歴史的な視点は重要。音楽でもそうだし、ファッションのような世界でも、例えばココ・シャネルのような人の影響とかを考えるといろいろ見えてくる。コミックの世界で手塚治虫はもちろん超重要人物だけど、梶原一騎とかの劇画の開拓者や、大友克洋の影響とか、ある意味誤解を恐れずに言うと吾妻ひでおがオタク文化に与えた影響とか、無視できるはずがない。ビートルズを聞くことは、音楽を楽しむ意味はもちろん、ポップ・ミュージックの輪郭を自分の中で描く行為でもある。
ちなみに僕は「a day in the life」が好きです。「while my guiter gently weeps」も泣ける。「across the univers」とかカラオケで歌うしw「she loves you」をシャウトしたりもするw「wiht a little help from my friends」みたいな曲も大好きだし、「the long and winding road」に聞きほれたりもする。あ、「yellow submarine」だってあるし、昔は好きじゃなかったけど、「ob-la-di,ob-la-da」は今は好き。というか、はずれの曲を思いつけない。今でも何を聞いていいかわからないときはとりあえずビートルズをかけます。
もしラウンド型のサングラスをかけることがあったら、「ジョン・レノンかよ!」というつっこみに、「違う、アンディ・パートリッジだ!」と反論したいw
「けいおん!」における物語の終わりについて~けいおん!論 [映画]
けいおん!(TVアニメ版)
とても久しぶりのブログ更新、しかもテーマがけいおん!wアニメはこれまで積極的に論じるつもりはなかったし、今でもそうたいそうなことを言える資格はあるはずがない。単に観ている作品数の少なさの問題だけでなく、アニメ制作の現場の知識なんて推測ベースでも極めて限定的なものに限られるし、作画から声優の演技、ひいては各制作会社の個性までとても追いきれるものではない。それなりにエポックメイキングな作品は追っているつもりはあるが、所詮僕は一エンドユーザであり、作画の質なんて語れるはずもない。せいぜいできるのは物語の深読み(それも往々にして極めてミスリードw)と、映画の技法を当てはめて映像を語るくらいだ。それでも素人のあてずっぽうがうっかり核心に触れてしまうことはありうると信じているし、少しうがった見方を提示することも、その視点が全く論理的にありえないということがなければ批評の豊かさの一画は担えるかもしれないという思いもある。まあ、このくらいあらかじめ言い訳を用意して少し突っ込んで考えてみる。
まずきっちり押さえておきたいのは、このアニメが日常性をとても重視している点だ。ここでいう日常性とはそれほど厳密な定義でもなく、ましてや虚構に対する現実という問題すら意識していない。リアリティという単語すら出したくない。単にこの作品が日本のどこかの女子高におけるささやかな日常生活を丁寧に描いているという話でしかない。また、このアニメにおける日常性の描き方もこの作品固有の手法では全くないし、たとえば現在進行形で放映中の「とある魔術の禁書目録」だって、魔法や超能力が頻繁に登場するファンタジーの世界ではありつつ、主人公が公園に設置されている缶ジュース(極めて怪しい飲み物ばかりw)の自動販売機に二千円札を投入するも、お金が出てこないというモチーフを描いている。「禁書」では、この自販機にヒロイン(厳密には違うが)の御坂さんがハイキックをかます行為が物語を進める重要な契機になっているが。このような日常性の扱いは僕の知る限りでは「エヴァンゲリオン」で手法として明確に扱われ始め、「あずまんが大王」あたりで顕在化したように思っているが、もちろんこの認識は誤りかもしれない。いわゆる学園アニメ扱いの作品群では当然こういうモチーフを扱わないと作品として成立しないし、学園アニメではなくとも、「ドラゴンボール」などの一見日常性を拒否した荒唐無稽な物語でも、このくらいのネタはあるだろう。少なくとも「うる星やつら」くらいまではさかのぼっていいとも思う。物語の日常性はアニメにおいて(あるいはアニメに限らず)受け手が作品を受容する際の重要な要素であるはずだし。だが、そこに話を広げる必要はないので割愛する。
さて、「けいおん!」における日常性の扱いについてもっと話を進めよう。いろんな切り口はあるはずだが、ある程度の分かりやすさを重視して、安易ではあるが「ハレ」と「ケ」という二項対立を持ち込んでみよう。
「けいおん!」は言うまでもなく女子高の軽音部に在籍する高校生たちの物語である。当然のことだが登場人物すべてが軽音部に所属しているわけではなく、クラスメートや教師、主人公(公式サイトでも主人公表記なのでこう呼んでおく)平沢唯の妹、憂までが重要な登場人物である。もっとも憂は唯と同じ高校に進学することになるが。その一方、いわゆる大人の世界はほとんど描かれないし、登場人物の両親さえ、琴吹紬の親が大変な資産家であることはこの作品の基本設定であり、もちろん物語の重要なドラムホイールであるが、メインの物語の流れである主人公たちの学園生活とその終焉である卒業には基本的には関係ない要素でもあるし、作中でほとんど触れられないどころか、絵すら出てこない。これは重要な要素かもしれない。そして、この段落冒頭で簡略化した物語の要旨をざっと読んだだけで、我々はすぐこの作品の中にバンドの演奏シーンという「ハレ」の要素がきっちり用意されていることは観る前に明らかである。OPからこの作品内の架空のバンド「放課後ティータイム」の演奏シーンとして演出されているし、EDはPVを強く意識した作りである。だが、受け手の「ハレ」を希求する態度はほんの少し本編を観るだけで軽く裏切られる。この作品が「ハレ」を連発することを追及しているのではなく、むしろ「ケ」の、一見地味な生活の中にあるささやかな要素に着目することで笑いを生み出し、受け手を魅了するものであることが明らかだからだ。
「ハレ」としてのバンドの演奏シーンが登場するのは学園祭そのほかでバンドがオフィシャルにライブとして活動する場面に限られている。練習風景すら曲の冒頭やラストの音が聞こえるだけで、克明に描写されているわけではない。軽音部の活動も、放課後に部室で紬が用意する高級な紅茶とケーキを楽しむことに偏りがちで、それを梓が「練習しましょう!」とたしなめるのがお約束になっている。
この時点で断定するのは早い気もするが、少なくともこの作品での主人公たちの活躍の場がスポットライトとオーディエンスの熱い視線が集まるステージに限定されていないことは明らかである。バンドが徐々に世間の注目を浴びてスターダムに上り詰めるサクセスストーリでは全くないどころか、主人公たちが演奏技術に上達していく要素すらほとんど意識しない。高校生活は3年間だが、主人公たちの学年が上がって受験を意識したりするくらいで、「成長」の要素はほとんどない。むしろ毎年夏合宿に行って(3年目は夏フェスだが)学園祭でライブをやる日常の反復の物語だ。この反復が3回に限定されていることが極めて重要な問題なのだが。
といって、この作品が「ハレ」の熱狂を全く考えていないわけでは無論ない。というより「ケ」の反復の中に「ハレ」への欲求を潜在的に高めている部分はある。もっとも受け手はそのことを意識することはまずない。ライブの話も登場人物たちが茶飲み話の中で「次のライブは…」とほのめかす程度に限定されているし、登場人物がバンドのライブにおける成功において経済的にも社会的影響力の点でもほとんど恩恵を受けないことを受け手が強く認識させられるからだ。特にバンドのベーシストである秋山澪にいたっては目立つことを積極的に避けている。「澪ファンクラブ」なるものが存在するのにwしかしひとたびバンドの演奏が始まると受け手の視線は「放課後ティータイム」に釘付けになる。その楽曲の怪しい歌詞(ごはんはおかずw)にも違和感を覚えつつ、むしろその高校生の日常感覚から派生したことが明らかな楽曲をほほえましく好ましいものとして受け取り、一方、アニメだから当然のお約束ではあるが、確かな演奏技術と高校生が片手間に作曲したとはとても思えないきっちりした音楽性
に素直に聞き入ってしまったりする。この作中歌がチャートの上位に食い込んでいることは単にアニメの影響力の強さだけではないはず。いわゆる「アニソン」としてはかつてない勢いで売れているみたいだし、名前を伏せて聞いてもガールズポップとして流通するレベルではあるはず。もっともこの点は主観の部分はある。
少し話は脱線しているが、これくらいの認識でも例えば「NANA」のような安易なサクセスストーリー(もちろんけいおん!との比較でNANAを持ち出すのはNANAがかわいそうでもある)では全くないことは指摘できると思う。
そして圧巻なのは主人公たちの最後の学園祭ライブである。このライブはTV放送の一話丸ごとを割いて描かれている。この扱いだけでこのライブが作中の極めて重要なトピックであることは明らかだが、この第二期20話においてライブ会場である体育館のステージに向かう「放課後ティータイム」メンバーを追うキャメラがアリフレックス風に手持ちキャメラの視点を提示し、また、ライブステージに上がったバンドがステージから客席に視線を向ける瞬間、それまで暗幕を背景にステージをとらえていたキャメラが客席にパンする所など、アニメにおける映像文法をかなり逸脱している。また、ライブを成功裏に終えたメンバーたちが部室で笑いながらライブの成功を振り返っていた会話がいつの間にか「次はないない」という端的な終焉の予告のセリフをきっかけにいつしか「これは汗だよ」と言いながらぼろぼろ涙をこぼし、最終的には顧問のさわ子に、5人が夕日の差す部室の大きな窓の下で平面的に一列に肩を預けあってすやすや眠り込んでいる姿を目撃され、「幸せそうな顔」というある意味物語の総括的なセリフを呟かせるシーンは極めて重要である。
この作品における「ケ」の扱いは「ハレ」の非日常性を描くための貧弱な「ケ」の日常性というレベルではない。ひっくり返して「ケ」の日常性を魅力的に描き出すための装置としての「ハレ」の華やかさという発想もない。それなら前者の視点ではたとえば「ハレ」であるステージに上った時のメンバーと「ケ」におけるメンバーの対比くらいは描きそうな気もするし、また、後者の視点で「ケ」を描くにはやはり「ハレ」はこの作品におけるように「ケ」の延長上に簡単にとらえられるようではならない。「けいおん!」においてはメンバーが放課後に紅茶を楽しんで些細なことに笑い転げているスタンスから一歩も逸脱せず、そのままステージに上って観衆の喝采を浴びる描き方が重要である。この点で「ハレ」と「ケ」の二項対立は脱構築され(脱構築なのかどうかははっきりしないのだが)、日常が「ハレ」であるとともに同時に「ケ」でもあるということが制作サイドの戦略でありつつ、また、世界の本質かもしれないという認識を受け手に与えている。さらに、「けいおん!」のこのスタンスに接しつつ、意識的な受け手はアニメにおける日常性の問題について考えさせられる。
たとえば映画なら少なくともキャメラが何か人物や物、風景などを撮ってしまった時点でその映像はある程度現実のものである。もちろん映画は監督によって演出されるものであり、どんなにシンプルな対象を撮ってもそこには作り手の意志が介在するし、また、スクリーンに映し出される以前にフィルムに焼き付けられる時点で本当の意味で観客の目の前に存在している現実ではない虚構である。それは現実に映写されている映像が過去にしか存在していないという時間的な意味でもそうである。だが、アニメは映画よりも確実に虚構性の高いジャンルである。いかに原作があって、実話に忠実に描いても、現実のものを二次元においてセル画に起こした時点で、明らかに我々を取り巻く世界の現存在とは全く異質のものになってしまう。もちろんそういうアニメの抽象度の高さが表現の自由さを提供していることは端的に事実である。実写では表現不可能なファンタジックな描写や、たとえば宮崎駿のマスターピース「カリオストロの城」でルパンが尖塔の上を軽やかに駆けるシーンのような極めて魅力的な映像体験を作り出したこともある。だが、そういうアニメの自由さに安易に依存し、ただ単に派手な戦闘シーンばかり描写する姿勢はアニメの根源的な力とは言えないとも思う。とくに「けいおん!」のようなアニメの日常性を強く意識した作品に接すると当然そういう思いは強くなる。「けいおん!」において作品内の日常を繊細に丁寧に描くことは、受け手に「リアリティ」の意識を植え付け、およそ全くの虚構であるはずのアニメにおいて(多少卑近な用法ではあるが)「リアリティ」を感じることの意味について考えていることを発見した時点で、アニメという表現ジャンルの輪郭をくっきり浮かび上がらせる効果がある。
次に「けいおん!」の僕が最も問題視している点、すなわち物語自体もしくはキャラの、あらかじめ約束され逃れることのできない運命としての「終焉」もしくは「死」(死といいきるのは実はかなり抵抗がある。この要素はある程度の確度で言えるとは思っているが、僕が確信を持って言ってもミスリードである可能性はあると思う)という問題について話を進めよう。
まず、印象論だが、「けいおん!」を観るうちに、僕の中にある懐かしさの感覚というか、過去に既に起こってしまった出来事を卒業アルバムをめくるように回想しているような感覚が濃厚に漂ったことを告白しておく。それは具体的にこのシーンのこの演出に表れていると断言できないのがもどかしいが、この作品の舞台が日本のどこかの高校であることから、受け手が自身の高校生活を連想することはそう難しいことではない。確かに僕に軽音部に在籍してバンド活動を行った歴史はないし、ましてや女子高にいたはずもないwだが、日本の「どこか」と舞台をぼかされ、さらに軽音部に在籍していないと理解不可能な要素がおよそ皆無であることから、僕ですら軽く自分の高校時代(高校に限定されない。制服を着て公教育を受けた時代ならたとえば中学校でもいいはず)に思いをはせることは間違った発想ではないし、制作サイドのスタンスとしてもそういう連想を妨げる姿勢は感じられない。
だが、僕が問題視したいのは、単に僕の過去を懐かしむモメントとしてこの作品に接する時間が作用したという点ではない。すでに述べたように、この物語が「起こってしまった」ものである、もっと言うと、既に「終わってしまった」という印象を受けることだ。
確かにこの作品はある程度現代の物語であるはず。登場人物は携帯でコミュニケーションをとっているし、澪はPCで作詞している。バンドの会話の中に古きロックスターの名前(the who のキース・ムーンなど)が登場する時点で90年代、それも後半以降の設定であることは間違いない。ただ、物語の時代設定を明確にしていない点と、原作の漫画が原作者のかきふらい氏の大学時代のバンド活動から着想を得ている点から、受け手が過去を振り返る視点で受容することを妨げていない。原作に即して言えば明白に過去の話を物語るスタンスでもある。
さらに、この物語が「終わってしまった」ものであるという発想は、おそらくこの作品の舞台が高校生活に限定されていることからきているはずだ。高校生活は基本的に3年間に限定されている。その上現時点でこの物語が高校卒業後の世界に発展することが明白にアナウンスされていないこと、おまけに第二期を観終わった時点で作品のクライマックスが高校の卒業という終末におかれていることを考えると、この物語が明確に「終わり」を意識して作られていて、「終わる」物語を総括して語る行為の時点でこの物語が「終わってしまった」ことであることは外れていないと思う。
もちろん「終わり」はあらゆる物語にあるはずのものだが、物語の「終わり」をある程度ぼかすことで、サーガ的にいつまででも際限なく延長、反復可能なものにすることはできる。「ガンダム」シリーズはもちろんそうだし、「スターウォーズ」だって宇宙が存在し文明があり、異なる惑星間の対立構造があれば基本的に無限に延長できる。だが、「けいおん!」の様に明確に終末を用意されるとそういう物語の延命行為は不可能だ。
もちろんこういう点は「けいおん!」に限らず、同じく高校を舞台にした作品なら枠組みとして備えている。高校に限らなくても時間的広がりを限定する装置はいくらでもある。だが、「けいおん!」がそういう作品と比べて異質なのは、すでに述べたクライマックスとしての卒業の扱いや、全くビルディングスロマンとは読めない点、3回限りの反復、また、抑え気味な音楽(もちろんバンドの演奏は除く)、どこか懐かしい木材を多用した桜高の校舎、などなど、物語叙述のレベルだけでなく、アニメの演出技法の点にも見出せると思っている。
だが、とりあえず「けいおん!」を異端児扱いすることが重要ではないし、時間を限定された物語はあまねくそうであると言っても、一般的な物語論としては問題はあるだろうが、「けいおん!」を語る時にはあまり関係はないし、そこは厳密に考えない。
「けいおん!」における「終わり」について述べるために、いくつかの物語上のトピックを挙げておきたい。まずはやはり学園祭のライブ後のシーン。普段ギャグとして涙を見せることはあるが、ここまではっきり号泣する場面を見せられると、主人公たちが「終わり」をどれだけ深刻にとらえているか明らかだ。この場面での「終わり」は、直接的にはバンドメンバーが高校を卒業することで「別れ」を経なければならないことに発しているが、それはバンド活動がもう続けられない、少なくとも2年生である梓を加えた5人では不可能であることにすぐ敷衍され、バンド活動の楽しさとの決別、高校生活全体への回顧くらいまではたちまち発展している。生命の終わりでは決してないが、高校生活を舞台にしたアニメ作品における極めて限定的な抽象度の高い存在である主人公たちキャラにとっては、自身の存在基盤である高校生活の終焉というモメントは彼女たちの存在の限界でもある。また、卒業式(式自体は儀式としての重要性すら完全には担保していないかもしれないが)の後、去っていく3年生たちが部室で残される梓に向けて彼女たちにしては珍しくバラードを演奏し、梓が写真に涙をこぼすシーンは、やはり、去りゆく者が後に残るものに向けて奏でる別れの曲であり、過去の結晶である写真を握りしめて聞き入る梓の姿には死者の面影をかみしめる意味も感じられたりする。最終話(番外編があるので厳密には最終回ではないが、番外編は卒業式以前の話であることは明白)のラストが部室からバンドの演奏が漏れ聞こえるのを、部室の木造りの大きな扉を映して終わっているのも、端的に最終的な別れを明示するよりより致命的に終焉である印象も受ける。
絵作りの点でも少し指摘しておきたい。主人公たちが活躍する日常の時間帯が「放課後」であることからの当然の帰結として、この作品では夕日に照らされるキャラの姿や表情、建物、風景が頻繁に出現する。夕焼けそのものを見せる絵も存在する。この夕日自体が落陽の印象を与える、と言い切るのはまだ早いが、往々にして夕方のシーンで背景の絵の輪郭がぼやけていて、全体の色調も淡いものにまとめられている。夕方の設定に限らず、昼間の学校での場面でも、奇抜な色彩がはじける絵はほとんどなく、主にパステルカラーを多用した色調でまとめられている。淡い色彩、ぼやけた輪郭という絵が受け手に与える印象はもちろん過去の回想である。こういう点は演出上の小手先の技術ではあるかもしれないが、制作者が意図的に作っていることが明らかである以上、決して無視できない。
さらに踏み込もう。この点を指摘するのは深読みのし過ぎというか、誤読すれすれのことだが、こういうこともいえる。3年生の学園祭で主人公たちのクラスが上演する芝居が「ロミオとジュリエット」であることが、やはり「終わり」の印象を形成するのに一役買っているのではないだろうか。「ロミオとジュリエット」は周知のとおり、イタリアのヴェローナを舞台に、モンタギュー家とキャピュレット家の対立のはざまで若きロミオとジュリエットが、たった5日間のうちに運命的な恋におち、身の破滅を招く物語だ。シェイクスピア悲劇での一般的な結末と同様、「ロミオとジュリエット」は主人公たちの死をもって結末となる。女子高生がある種の憧れをもって好んで取り上げそうな戯曲ではあるが、原作はとても長く、言い回しも複雑で、演劇経験のほとんどない素人が気安く上演できるものではない。また、「けいおん!」において、有名なバルコニーのシーン(「どうしてあなたはロミオなの?」)だけでなく、結末の毒を仰いで絶命したロミオの姿に絶望したジュリエットが短剣で喉を貫く場面を押さえている(このシーンで使うはずの墓石が見つからず、「オカルト研」から似たものを借りてきたら、それがロゼッタストーンだった(!)という、ある意味すごいオチも用意されている。ロゼッタストーンの前で絶命するロミオとジュリエット!)のは、やはり制作サイドの意図であると断言はできないものの、僕の文脈で読んでいると意味が濃厚に発生する。
と、状況証拠を連ねたが、少なくとも僕が受けた印象がどこから来ているかについての説明にはなったと思う。この作業を続けることが全く無意味ではないはずだが、いつまでたってもミスリード扱いをされる可能性はあるし、この辺で終わりにしてアニメにおけるキャラと、その「死」について簡単に述べてまとめに入る。
「キャラクター」もしくは「キャラ」という概念は到底一筋縄で語れるものではない。特に映画、小説、漫画、などなど、芸術の様々なジャンルに敷衍すると圧倒的にまとまらない。この文章では便宜的に「キャラ」という表記を使い、とりあえずアニメにおける二次元のセル画に描かれたものだけを扱ったつもりだが、これで良しとできるはずがない。ついでにこの文で登場人物という呼称を使っていたのも極めて便宜的に用いたもので、主人公たちが厳密に人間であるはずがない。ただ、限定的ではあるが、主人公たちに人格を全く認めないのも誤りだ。これらの点はエクスキューズではあるが、アニメにおけるキャラの特徴についての一面でもある。
さて、アニメの制作において特権的に作家性を発揮する主体が誰であり、どういう肩書なのかはよく分からない。それは僕が制作の現場を知らないということだけでなく、たとえば映画における監督、演劇における演出家、小説における作家のように、誤解を恐れずに言うと、アニメ制作がある種のヒエラルキーが約束された世界ではないように見えていることがあげられる。アニメはもちろん映像作品であるので監督を名乗る存在が大きな力を持つのはもちろんだが、一方、作画監督や脚本家、最近のアニメではもう当然の流れだが、3DCGを駆使した演出の場合にCG技術者が果たす役割も当然大きいだろうし、声優がアイドル扱いされているのも無理はないとも思えるし、極めて集団創作の色彩が濃いと思っている。こういうアニメの特性を押さえて、アニメにおいて「キャラ」を描く主体は誰なのかということから話を始めよう。
一般的なアニメ制作において、キャラづくりをどこから始めるかわからないが、おそらく、絵、声、設定(性格、好み、家族環境、生活史などなど)の点を押さえることが重要ではないだろうか。そうだとすると、キャラクターデザインと、末端のアニメイターに至る作画スタッフ、声優およびアフレコを統括する演出家、設定に関与するはずの監督や脚本家、このあたりがキャラ創造の仕掛け人ではないだろうか。これらの立場の人たちの意見を統括し、ある意味誘導していくはずの監督の立場はやはりきわめて重要であるはず。そして監督はおそらくプロデュースサイドの意向もある程度組んで作品制作を行っているとすると、総合的に考えて、アニメ制作の基本戦略の立案に最も責任を持ってかかわっているのは監督ではあるだろう。そこを踏まえると、監督がアニメの方向性を決定し、その指針を適用してキャラの演出を決定していることは多分確かだろう。そうすると、アニメにおけるキャラとは監督あるいはアニメ作りを総体的に監督する立場の存在が、アニメにおいてのメッセージ伝達効果や、美的
効果を上げるために便宜的に想像した架空の存在ともいえるかもしれない。もちろんキャラの登場しないアニメがまず考えられない以上、アニメを名乗った時点ですでにキャラに依存して作品を作らなくてはならないという点は踏まえるべきだ。だが少なくともキャラが監督ないしはアニメ制作者の意図的な創造物であり、自然発生的に生まれたものであるとは言い難い面があることを確認すれば、今述べようとしていることの前提としては十分だ。
アニメにおけるキャラが監督の被造物である以上、キャラがどのような運命に巻き込まれるかを決定するのは監督の自由である。さらに言うならば、キャラの生殺与奪の権利さえ、監督は握っている。これはごく当たり前のことに見えるが、たとえば映画において監督が出演俳優の生死を左右する事態はおよそ考えられない。この点で監督はアニメにおいて絶大な権力者でもある。
そうするとキャラはどれだけ生き生きと躍動しても、所詮監督の手の上で踊っているに過ぎない。キャラは監督の気まぐれであっさり死んでしまうか弱い存在である。
これくらいのことを確認して話を「けいおん!」に戻そう。「けいおん!」において「終わり」の感覚が濃厚であるということは、端的に事実とは断言しないが、少なくとも僕がそう感じたということはすでに述べたし、その状況証拠は提示した。この視点をある意味補完しつつ、話をキャラの脆弱さと死の路線で延長してみる。「けいおん!」が物語の「終わり」を強く意識した作品であるなら、その中で踊る作品内存在であるキャラは、「けいおん!」の「終わり」というものについてのスタンスを極めて強く訴えかけてくる存在でもある。主人公たちがいかに若々しく高校生活を謳歌しようとも、高校3年生の最後に卒業という形で物語の終焉を迎えざるを得ないことが、受け手にとっていくばくかの切なさすら感じさせる。「けいおん!」においてキャラの脆弱さが示すのは、現実に生きる人間の生命の終焉や死生観などでは全くないが、アニメにおける物語の終端を明示し、その明証性といっていいほどの端的さが、ある意味アニメの物語を成立させる前提条件でもあるかもしれない。「けいおん!」の物語性は、この点で「けいおん!」一作品に限定された問題系ではなく、アニメそのものの境界線を描く行為でもある。さらに言うと、物語叙述において全くの現在進行形があり得ない以上、過去を振り返る行為の中で「終わってしまった」ことが述べられた時点で、この作品がこの作品の終末についてだけ述べているのではなく、少なくともアニメ全体における物語性、もっと言うと、あらゆる物語における物語性の輪郭すら描き出しているのではないだろうか。
というわけのわからん結末に至ったwもちろん僕にはそれなりに納得がいっていたりはする。だが突っ込まれてあたふたはするかもしれないwでも、このくらい小理屈をこねることができるという点で、「けいおん!」は単なる萌えアニメではない! くらいのことは強く主張したかったりする。
というわけで、「けいおん!」万歳。
とても久しぶりのブログ更新、しかもテーマがけいおん!wアニメはこれまで積極的に論じるつもりはなかったし、今でもそうたいそうなことを言える資格はあるはずがない。単に観ている作品数の少なさの問題だけでなく、アニメ制作の現場の知識なんて推測ベースでも極めて限定的なものに限られるし、作画から声優の演技、ひいては各制作会社の個性までとても追いきれるものではない。それなりにエポックメイキングな作品は追っているつもりはあるが、所詮僕は一エンドユーザであり、作画の質なんて語れるはずもない。せいぜいできるのは物語の深読み(それも往々にして極めてミスリードw)と、映画の技法を当てはめて映像を語るくらいだ。それでも素人のあてずっぽうがうっかり核心に触れてしまうことはありうると信じているし、少しうがった見方を提示することも、その視点が全く論理的にありえないということがなければ批評の豊かさの一画は担えるかもしれないという思いもある。まあ、このくらいあらかじめ言い訳を用意して少し突っ込んで考えてみる。
まずきっちり押さえておきたいのは、このアニメが日常性をとても重視している点だ。ここでいう日常性とはそれほど厳密な定義でもなく、ましてや虚構に対する現実という問題すら意識していない。リアリティという単語すら出したくない。単にこの作品が日本のどこかの女子高におけるささやかな日常生活を丁寧に描いているという話でしかない。また、このアニメにおける日常性の描き方もこの作品固有の手法では全くないし、たとえば現在進行形で放映中の「とある魔術の禁書目録」だって、魔法や超能力が頻繁に登場するファンタジーの世界ではありつつ、主人公が公園に設置されている缶ジュース(極めて怪しい飲み物ばかりw)の自動販売機に二千円札を投入するも、お金が出てこないというモチーフを描いている。「禁書」では、この自販機にヒロイン(厳密には違うが)の御坂さんがハイキックをかます行為が物語を進める重要な契機になっているが。このような日常性の扱いは僕の知る限りでは「エヴァンゲリオン」で手法として明確に扱われ始め、「あずまんが大王」あたりで顕在化したように思っているが、もちろんこの認識は誤りかもしれない。いわゆる学園アニメ扱いの作品群では当然こういうモチーフを扱わないと作品として成立しないし、学園アニメではなくとも、「ドラゴンボール」などの一見日常性を拒否した荒唐無稽な物語でも、このくらいのネタはあるだろう。少なくとも「うる星やつら」くらいまではさかのぼっていいとも思う。物語の日常性はアニメにおいて(あるいはアニメに限らず)受け手が作品を受容する際の重要な要素であるはずだし。だが、そこに話を広げる必要はないので割愛する。
さて、「けいおん!」における日常性の扱いについてもっと話を進めよう。いろんな切り口はあるはずだが、ある程度の分かりやすさを重視して、安易ではあるが「ハレ」と「ケ」という二項対立を持ち込んでみよう。
「けいおん!」は言うまでもなく女子高の軽音部に在籍する高校生たちの物語である。当然のことだが登場人物すべてが軽音部に所属しているわけではなく、クラスメートや教師、主人公(公式サイトでも主人公表記なのでこう呼んでおく)平沢唯の妹、憂までが重要な登場人物である。もっとも憂は唯と同じ高校に進学することになるが。その一方、いわゆる大人の世界はほとんど描かれないし、登場人物の両親さえ、琴吹紬の親が大変な資産家であることはこの作品の基本設定であり、もちろん物語の重要なドラムホイールであるが、メインの物語の流れである主人公たちの学園生活とその終焉である卒業には基本的には関係ない要素でもあるし、作中でほとんど触れられないどころか、絵すら出てこない。これは重要な要素かもしれない。そして、この段落冒頭で簡略化した物語の要旨をざっと読んだだけで、我々はすぐこの作品の中にバンドの演奏シーンという「ハレ」の要素がきっちり用意されていることは観る前に明らかである。OPからこの作品内の架空のバンド「放課後ティータイム」の演奏シーンとして演出されているし、EDはPVを強く意識した作りである。だが、受け手の「ハレ」を希求する態度はほんの少し本編を観るだけで軽く裏切られる。この作品が「ハレ」を連発することを追及しているのではなく、むしろ「ケ」の、一見地味な生活の中にあるささやかな要素に着目することで笑いを生み出し、受け手を魅了するものであることが明らかだからだ。
「ハレ」としてのバンドの演奏シーンが登場するのは学園祭そのほかでバンドがオフィシャルにライブとして活動する場面に限られている。練習風景すら曲の冒頭やラストの音が聞こえるだけで、克明に描写されているわけではない。軽音部の活動も、放課後に部室で紬が用意する高級な紅茶とケーキを楽しむことに偏りがちで、それを梓が「練習しましょう!」とたしなめるのがお約束になっている。
この時点で断定するのは早い気もするが、少なくともこの作品での主人公たちの活躍の場がスポットライトとオーディエンスの熱い視線が集まるステージに限定されていないことは明らかである。バンドが徐々に世間の注目を浴びてスターダムに上り詰めるサクセスストーリでは全くないどころか、主人公たちが演奏技術に上達していく要素すらほとんど意識しない。高校生活は3年間だが、主人公たちの学年が上がって受験を意識したりするくらいで、「成長」の要素はほとんどない。むしろ毎年夏合宿に行って(3年目は夏フェスだが)学園祭でライブをやる日常の反復の物語だ。この反復が3回に限定されていることが極めて重要な問題なのだが。
といって、この作品が「ハレ」の熱狂を全く考えていないわけでは無論ない。というより「ケ」の反復の中に「ハレ」への欲求を潜在的に高めている部分はある。もっとも受け手はそのことを意識することはまずない。ライブの話も登場人物たちが茶飲み話の中で「次のライブは…」とほのめかす程度に限定されているし、登場人物がバンドのライブにおける成功において経済的にも社会的影響力の点でもほとんど恩恵を受けないことを受け手が強く認識させられるからだ。特にバンドのベーシストである秋山澪にいたっては目立つことを積極的に避けている。「澪ファンクラブ」なるものが存在するのにwしかしひとたびバンドの演奏が始まると受け手の視線は「放課後ティータイム」に釘付けになる。その楽曲の怪しい歌詞(ごはんはおかずw)にも違和感を覚えつつ、むしろその高校生の日常感覚から派生したことが明らかな楽曲をほほえましく好ましいものとして受け取り、一方、アニメだから当然のお約束ではあるが、確かな演奏技術と高校生が片手間に作曲したとはとても思えないきっちりした音楽性
に素直に聞き入ってしまったりする。この作中歌がチャートの上位に食い込んでいることは単にアニメの影響力の強さだけではないはず。いわゆる「アニソン」としてはかつてない勢いで売れているみたいだし、名前を伏せて聞いてもガールズポップとして流通するレベルではあるはず。もっともこの点は主観の部分はある。
少し話は脱線しているが、これくらいの認識でも例えば「NANA」のような安易なサクセスストーリー(もちろんけいおん!との比較でNANAを持ち出すのはNANAがかわいそうでもある)では全くないことは指摘できると思う。
そして圧巻なのは主人公たちの最後の学園祭ライブである。このライブはTV放送の一話丸ごとを割いて描かれている。この扱いだけでこのライブが作中の極めて重要なトピックであることは明らかだが、この第二期20話においてライブ会場である体育館のステージに向かう「放課後ティータイム」メンバーを追うキャメラがアリフレックス風に手持ちキャメラの視点を提示し、また、ライブステージに上がったバンドがステージから客席に視線を向ける瞬間、それまで暗幕を背景にステージをとらえていたキャメラが客席にパンする所など、アニメにおける映像文法をかなり逸脱している。また、ライブを成功裏に終えたメンバーたちが部室で笑いながらライブの成功を振り返っていた会話がいつの間にか「次はないない」という端的な終焉の予告のセリフをきっかけにいつしか「これは汗だよ」と言いながらぼろぼろ涙をこぼし、最終的には顧問のさわ子に、5人が夕日の差す部室の大きな窓の下で平面的に一列に肩を預けあってすやすや眠り込んでいる姿を目撃され、「幸せそうな顔」というある意味物語の総括的なセリフを呟かせるシーンは極めて重要である。
この作品における「ケ」の扱いは「ハレ」の非日常性を描くための貧弱な「ケ」の日常性というレベルではない。ひっくり返して「ケ」の日常性を魅力的に描き出すための装置としての「ハレ」の華やかさという発想もない。それなら前者の視点ではたとえば「ハレ」であるステージに上った時のメンバーと「ケ」におけるメンバーの対比くらいは描きそうな気もするし、また、後者の視点で「ケ」を描くにはやはり「ハレ」はこの作品におけるように「ケ」の延長上に簡単にとらえられるようではならない。「けいおん!」においてはメンバーが放課後に紅茶を楽しんで些細なことに笑い転げているスタンスから一歩も逸脱せず、そのままステージに上って観衆の喝采を浴びる描き方が重要である。この点で「ハレ」と「ケ」の二項対立は脱構築され(脱構築なのかどうかははっきりしないのだが)、日常が「ハレ」であるとともに同時に「ケ」でもあるということが制作サイドの戦略でありつつ、また、世界の本質かもしれないという認識を受け手に与えている。さらに、「けいおん!」のこのスタンスに接しつつ、意識的な受け手はアニメにおける日常性の問題について考えさせられる。
たとえば映画なら少なくともキャメラが何か人物や物、風景などを撮ってしまった時点でその映像はある程度現実のものである。もちろん映画は監督によって演出されるものであり、どんなにシンプルな対象を撮ってもそこには作り手の意志が介在するし、また、スクリーンに映し出される以前にフィルムに焼き付けられる時点で本当の意味で観客の目の前に存在している現実ではない虚構である。それは現実に映写されている映像が過去にしか存在していないという時間的な意味でもそうである。だが、アニメは映画よりも確実に虚構性の高いジャンルである。いかに原作があって、実話に忠実に描いても、現実のものを二次元においてセル画に起こした時点で、明らかに我々を取り巻く世界の現存在とは全く異質のものになってしまう。もちろんそういうアニメの抽象度の高さが表現の自由さを提供していることは端的に事実である。実写では表現不可能なファンタジックな描写や、たとえば宮崎駿のマスターピース「カリオストロの城」でルパンが尖塔の上を軽やかに駆けるシーンのような極めて魅力的な映像体験を作り出したこともある。だが、そういうアニメの自由さに安易に依存し、ただ単に派手な戦闘シーンばかり描写する姿勢はアニメの根源的な力とは言えないとも思う。とくに「けいおん!」のようなアニメの日常性を強く意識した作品に接すると当然そういう思いは強くなる。「けいおん!」において作品内の日常を繊細に丁寧に描くことは、受け手に「リアリティ」の意識を植え付け、およそ全くの虚構であるはずのアニメにおいて(多少卑近な用法ではあるが)「リアリティ」を感じることの意味について考えていることを発見した時点で、アニメという表現ジャンルの輪郭をくっきり浮かび上がらせる効果がある。
次に「けいおん!」の僕が最も問題視している点、すなわち物語自体もしくはキャラの、あらかじめ約束され逃れることのできない運命としての「終焉」もしくは「死」(死といいきるのは実はかなり抵抗がある。この要素はある程度の確度で言えるとは思っているが、僕が確信を持って言ってもミスリードである可能性はあると思う)という問題について話を進めよう。
まず、印象論だが、「けいおん!」を観るうちに、僕の中にある懐かしさの感覚というか、過去に既に起こってしまった出来事を卒業アルバムをめくるように回想しているような感覚が濃厚に漂ったことを告白しておく。それは具体的にこのシーンのこの演出に表れていると断言できないのがもどかしいが、この作品の舞台が日本のどこかの高校であることから、受け手が自身の高校生活を連想することはそう難しいことではない。確かに僕に軽音部に在籍してバンド活動を行った歴史はないし、ましてや女子高にいたはずもないwだが、日本の「どこか」と舞台をぼかされ、さらに軽音部に在籍していないと理解不可能な要素がおよそ皆無であることから、僕ですら軽く自分の高校時代(高校に限定されない。制服を着て公教育を受けた時代ならたとえば中学校でもいいはず)に思いをはせることは間違った発想ではないし、制作サイドのスタンスとしてもそういう連想を妨げる姿勢は感じられない。
だが、僕が問題視したいのは、単に僕の過去を懐かしむモメントとしてこの作品に接する時間が作用したという点ではない。すでに述べたように、この物語が「起こってしまった」ものである、もっと言うと、既に「終わってしまった」という印象を受けることだ。
確かにこの作品はある程度現代の物語であるはず。登場人物は携帯でコミュニケーションをとっているし、澪はPCで作詞している。バンドの会話の中に古きロックスターの名前(the who のキース・ムーンなど)が登場する時点で90年代、それも後半以降の設定であることは間違いない。ただ、物語の時代設定を明確にしていない点と、原作の漫画が原作者のかきふらい氏の大学時代のバンド活動から着想を得ている点から、受け手が過去を振り返る視点で受容することを妨げていない。原作に即して言えば明白に過去の話を物語るスタンスでもある。
さらに、この物語が「終わってしまった」ものであるという発想は、おそらくこの作品の舞台が高校生活に限定されていることからきているはずだ。高校生活は基本的に3年間に限定されている。その上現時点でこの物語が高校卒業後の世界に発展することが明白にアナウンスされていないこと、おまけに第二期を観終わった時点で作品のクライマックスが高校の卒業という終末におかれていることを考えると、この物語が明確に「終わり」を意識して作られていて、「終わる」物語を総括して語る行為の時点でこの物語が「終わってしまった」ことであることは外れていないと思う。
もちろん「終わり」はあらゆる物語にあるはずのものだが、物語の「終わり」をある程度ぼかすことで、サーガ的にいつまででも際限なく延長、反復可能なものにすることはできる。「ガンダム」シリーズはもちろんそうだし、「スターウォーズ」だって宇宙が存在し文明があり、異なる惑星間の対立構造があれば基本的に無限に延長できる。だが、「けいおん!」の様に明確に終末を用意されるとそういう物語の延命行為は不可能だ。
もちろんこういう点は「けいおん!」に限らず、同じく高校を舞台にした作品なら枠組みとして備えている。高校に限らなくても時間的広がりを限定する装置はいくらでもある。だが、「けいおん!」がそういう作品と比べて異質なのは、すでに述べたクライマックスとしての卒業の扱いや、全くビルディングスロマンとは読めない点、3回限りの反復、また、抑え気味な音楽(もちろんバンドの演奏は除く)、どこか懐かしい木材を多用した桜高の校舎、などなど、物語叙述のレベルだけでなく、アニメの演出技法の点にも見出せると思っている。
だが、とりあえず「けいおん!」を異端児扱いすることが重要ではないし、時間を限定された物語はあまねくそうであると言っても、一般的な物語論としては問題はあるだろうが、「けいおん!」を語る時にはあまり関係はないし、そこは厳密に考えない。
「けいおん!」における「終わり」について述べるために、いくつかの物語上のトピックを挙げておきたい。まずはやはり学園祭のライブ後のシーン。普段ギャグとして涙を見せることはあるが、ここまではっきり号泣する場面を見せられると、主人公たちが「終わり」をどれだけ深刻にとらえているか明らかだ。この場面での「終わり」は、直接的にはバンドメンバーが高校を卒業することで「別れ」を経なければならないことに発しているが、それはバンド活動がもう続けられない、少なくとも2年生である梓を加えた5人では不可能であることにすぐ敷衍され、バンド活動の楽しさとの決別、高校生活全体への回顧くらいまではたちまち発展している。生命の終わりでは決してないが、高校生活を舞台にしたアニメ作品における極めて限定的な抽象度の高い存在である主人公たちキャラにとっては、自身の存在基盤である高校生活の終焉というモメントは彼女たちの存在の限界でもある。また、卒業式(式自体は儀式としての重要性すら完全には担保していないかもしれないが)の後、去っていく3年生たちが部室で残される梓に向けて彼女たちにしては珍しくバラードを演奏し、梓が写真に涙をこぼすシーンは、やはり、去りゆく者が後に残るものに向けて奏でる別れの曲であり、過去の結晶である写真を握りしめて聞き入る梓の姿には死者の面影をかみしめる意味も感じられたりする。最終話(番外編があるので厳密には最終回ではないが、番外編は卒業式以前の話であることは明白)のラストが部室からバンドの演奏が漏れ聞こえるのを、部室の木造りの大きな扉を映して終わっているのも、端的に最終的な別れを明示するよりより致命的に終焉である印象も受ける。
絵作りの点でも少し指摘しておきたい。主人公たちが活躍する日常の時間帯が「放課後」であることからの当然の帰結として、この作品では夕日に照らされるキャラの姿や表情、建物、風景が頻繁に出現する。夕焼けそのものを見せる絵も存在する。この夕日自体が落陽の印象を与える、と言い切るのはまだ早いが、往々にして夕方のシーンで背景の絵の輪郭がぼやけていて、全体の色調も淡いものにまとめられている。夕方の設定に限らず、昼間の学校での場面でも、奇抜な色彩がはじける絵はほとんどなく、主にパステルカラーを多用した色調でまとめられている。淡い色彩、ぼやけた輪郭という絵が受け手に与える印象はもちろん過去の回想である。こういう点は演出上の小手先の技術ではあるかもしれないが、制作者が意図的に作っていることが明らかである以上、決して無視できない。
さらに踏み込もう。この点を指摘するのは深読みのし過ぎというか、誤読すれすれのことだが、こういうこともいえる。3年生の学園祭で主人公たちのクラスが上演する芝居が「ロミオとジュリエット」であることが、やはり「終わり」の印象を形成するのに一役買っているのではないだろうか。「ロミオとジュリエット」は周知のとおり、イタリアのヴェローナを舞台に、モンタギュー家とキャピュレット家の対立のはざまで若きロミオとジュリエットが、たった5日間のうちに運命的な恋におち、身の破滅を招く物語だ。シェイクスピア悲劇での一般的な結末と同様、「ロミオとジュリエット」は主人公たちの死をもって結末となる。女子高生がある種の憧れをもって好んで取り上げそうな戯曲ではあるが、原作はとても長く、言い回しも複雑で、演劇経験のほとんどない素人が気安く上演できるものではない。また、「けいおん!」において、有名なバルコニーのシーン(「どうしてあなたはロミオなの?」)だけでなく、結末の毒を仰いで絶命したロミオの姿に絶望したジュリエットが短剣で喉を貫く場面を押さえている(このシーンで使うはずの墓石が見つからず、「オカルト研」から似たものを借りてきたら、それがロゼッタストーンだった(!)という、ある意味すごいオチも用意されている。ロゼッタストーンの前で絶命するロミオとジュリエット!)のは、やはり制作サイドの意図であると断言はできないものの、僕の文脈で読んでいると意味が濃厚に発生する。
と、状況証拠を連ねたが、少なくとも僕が受けた印象がどこから来ているかについての説明にはなったと思う。この作業を続けることが全く無意味ではないはずだが、いつまでたってもミスリード扱いをされる可能性はあるし、この辺で終わりにしてアニメにおけるキャラと、その「死」について簡単に述べてまとめに入る。
「キャラクター」もしくは「キャラ」という概念は到底一筋縄で語れるものではない。特に映画、小説、漫画、などなど、芸術の様々なジャンルに敷衍すると圧倒的にまとまらない。この文章では便宜的に「キャラ」という表記を使い、とりあえずアニメにおける二次元のセル画に描かれたものだけを扱ったつもりだが、これで良しとできるはずがない。ついでにこの文で登場人物という呼称を使っていたのも極めて便宜的に用いたもので、主人公たちが厳密に人間であるはずがない。ただ、限定的ではあるが、主人公たちに人格を全く認めないのも誤りだ。これらの点はエクスキューズではあるが、アニメにおけるキャラの特徴についての一面でもある。
さて、アニメの制作において特権的に作家性を発揮する主体が誰であり、どういう肩書なのかはよく分からない。それは僕が制作の現場を知らないということだけでなく、たとえば映画における監督、演劇における演出家、小説における作家のように、誤解を恐れずに言うと、アニメ制作がある種のヒエラルキーが約束された世界ではないように見えていることがあげられる。アニメはもちろん映像作品であるので監督を名乗る存在が大きな力を持つのはもちろんだが、一方、作画監督や脚本家、最近のアニメではもう当然の流れだが、3DCGを駆使した演出の場合にCG技術者が果たす役割も当然大きいだろうし、声優がアイドル扱いされているのも無理はないとも思えるし、極めて集団創作の色彩が濃いと思っている。こういうアニメの特性を押さえて、アニメにおいて「キャラ」を描く主体は誰なのかということから話を始めよう。
一般的なアニメ制作において、キャラづくりをどこから始めるかわからないが、おそらく、絵、声、設定(性格、好み、家族環境、生活史などなど)の点を押さえることが重要ではないだろうか。そうだとすると、キャラクターデザインと、末端のアニメイターに至る作画スタッフ、声優およびアフレコを統括する演出家、設定に関与するはずの監督や脚本家、このあたりがキャラ創造の仕掛け人ではないだろうか。これらの立場の人たちの意見を統括し、ある意味誘導していくはずの監督の立場はやはりきわめて重要であるはず。そして監督はおそらくプロデュースサイドの意向もある程度組んで作品制作を行っているとすると、総合的に考えて、アニメ制作の基本戦略の立案に最も責任を持ってかかわっているのは監督ではあるだろう。そこを踏まえると、監督がアニメの方向性を決定し、その指針を適用してキャラの演出を決定していることは多分確かだろう。そうすると、アニメにおけるキャラとは監督あるいはアニメ作りを総体的に監督する立場の存在が、アニメにおいてのメッセージ伝達効果や、美的
効果を上げるために便宜的に想像した架空の存在ともいえるかもしれない。もちろんキャラの登場しないアニメがまず考えられない以上、アニメを名乗った時点ですでにキャラに依存して作品を作らなくてはならないという点は踏まえるべきだ。だが少なくともキャラが監督ないしはアニメ制作者の意図的な創造物であり、自然発生的に生まれたものであるとは言い難い面があることを確認すれば、今述べようとしていることの前提としては十分だ。
アニメにおけるキャラが監督の被造物である以上、キャラがどのような運命に巻き込まれるかを決定するのは監督の自由である。さらに言うならば、キャラの生殺与奪の権利さえ、監督は握っている。これはごく当たり前のことに見えるが、たとえば映画において監督が出演俳優の生死を左右する事態はおよそ考えられない。この点で監督はアニメにおいて絶大な権力者でもある。
そうするとキャラはどれだけ生き生きと躍動しても、所詮監督の手の上で踊っているに過ぎない。キャラは監督の気まぐれであっさり死んでしまうか弱い存在である。
これくらいのことを確認して話を「けいおん!」に戻そう。「けいおん!」において「終わり」の感覚が濃厚であるということは、端的に事実とは断言しないが、少なくとも僕がそう感じたということはすでに述べたし、その状況証拠は提示した。この視点をある意味補完しつつ、話をキャラの脆弱さと死の路線で延長してみる。「けいおん!」が物語の「終わり」を強く意識した作品であるなら、その中で踊る作品内存在であるキャラは、「けいおん!」の「終わり」というものについてのスタンスを極めて強く訴えかけてくる存在でもある。主人公たちがいかに若々しく高校生活を謳歌しようとも、高校3年生の最後に卒業という形で物語の終焉を迎えざるを得ないことが、受け手にとっていくばくかの切なさすら感じさせる。「けいおん!」においてキャラの脆弱さが示すのは、現実に生きる人間の生命の終焉や死生観などでは全くないが、アニメにおける物語の終端を明示し、その明証性といっていいほどの端的さが、ある意味アニメの物語を成立させる前提条件でもあるかもしれない。「けいおん!」の物語性は、この点で「けいおん!」一作品に限定された問題系ではなく、アニメそのものの境界線を描く行為でもある。さらに言うと、物語叙述において全くの現在進行形があり得ない以上、過去を振り返る行為の中で「終わってしまった」ことが述べられた時点で、この作品がこの作品の終末についてだけ述べているのではなく、少なくともアニメ全体における物語性、もっと言うと、あらゆる物語における物語性の輪郭すら描き出しているのではないだろうか。
というわけのわからん結末に至ったwもちろん僕にはそれなりに納得がいっていたりはする。だが突っ込まれてあたふたはするかもしれないwでも、このくらい小理屈をこねることができるという点で、「けいおん!」は単なる萌えアニメではない! くらいのことは強く主張したかったりする。
というわけで、「けいおん!」万歳。
未決定性の果てにある光景 [文学]
サーチエンジン・システムクラッシュ(宮沢章夫)
あらすじ
数年ぶりに級友の首藤の名前を新聞で見つけた「私」は、大学時代に所属していた「虚学」という不思議なゼミの回想から、池袋の街を「アブノーマル・レッド」という風俗店を探して漂う。
感想
ネットやアマゾンのレビューとは正反対に、私はこの作品を高く評価します。
物語は一見、徹底的なリアリズムから始まる。新聞記事に載った級友の犯した殺人事件の描写は、弁護士の陳述という形を取って、怖いくらいの迫力を持って読者に迫ってくる。
だが、分かりやすい=リアルな、ロゴス的な世界はここまでだ。首藤と再会した記憶から、風俗店を探し始める「私」は、リアリズムを遠く離れて「名付け得ぬもの」の迷宮に入っていく。
喫茶店でウェイトレスが言う言葉、「今は池袋ですよ」という言葉の分析に端的に現れているように、そこには私達が日常的に依拠している「意味」の崩壊した世界が、まるで手術のために皮膚を切り開かれた身体のように露出している。「私」はその身体の中を血みどろになりながらも軽やかに臓物を探してうごめく。
「今は」「池袋ですよ」とはどういう意味か、その言葉の意味に疑問を持ち始めた瞬間、見慣れたショッピングビルも、友人の顔も、自分が何をしているのかも分からなくなってくる。その徹底した曖昧さの中で、言葉の意味を回復する事を企てるのではなく、曖昧さと戯れるかのように見知らぬ路地を彷徨する事。それは文学が自明にしていた主題、プロット、文体などを徹底的に拒否する姿勢でありながら、しかし言葉というものの持つ一つの本質を描いている点で、やはり文学作品として成立している。
「物語とは物語らないことだ」という趣旨のことを誰かが言っていたが、語ること、定義づけること、意味を求めることを徹底的に拒むことで、逆説的にそこに「未決定性」というどうしようもなく文学的なテーマが浮かび上がってくるのが興味深い。
その曖昧さを、「語るべき事のないポストモダン的状況」と理解してしまうのは誤読だと思う。むしろそのような読みは曖昧さを徹底して追及したこの作品の味わいを殺し、世界に「意味」を取り戻そうとする「定義づけ」の思考法だ。むしろ永遠にクラッシュしてしまったサーチエンジンで世界を検索するように、無意味の思考と戯れるのが正しい楽しみ方だろう。
特筆すべきなのは、その戯れが筆者の卓越した理性的思考から産み出されているということだ。優秀な外科医の手さばきのように、筆者は一枚一枚定義、意味、名前を世の中からはぎ取っていく。その論理を追っていくのも楽しい。
そのように裸にされた世界で、読者が到達する結末とはいったい何なのか、それは個々の読後感にお任せする。
あらすじ
数年ぶりに級友の首藤の名前を新聞で見つけた「私」は、大学時代に所属していた「虚学」という不思議なゼミの回想から、池袋の街を「アブノーマル・レッド」という風俗店を探して漂う。
感想
ネットやアマゾンのレビューとは正反対に、私はこの作品を高く評価します。
物語は一見、徹底的なリアリズムから始まる。新聞記事に載った級友の犯した殺人事件の描写は、弁護士の陳述という形を取って、怖いくらいの迫力を持って読者に迫ってくる。
だが、分かりやすい=リアルな、ロゴス的な世界はここまでだ。首藤と再会した記憶から、風俗店を探し始める「私」は、リアリズムを遠く離れて「名付け得ぬもの」の迷宮に入っていく。
喫茶店でウェイトレスが言う言葉、「今は池袋ですよ」という言葉の分析に端的に現れているように、そこには私達が日常的に依拠している「意味」の崩壊した世界が、まるで手術のために皮膚を切り開かれた身体のように露出している。「私」はその身体の中を血みどろになりながらも軽やかに臓物を探してうごめく。
「今は」「池袋ですよ」とはどういう意味か、その言葉の意味に疑問を持ち始めた瞬間、見慣れたショッピングビルも、友人の顔も、自分が何をしているのかも分からなくなってくる。その徹底した曖昧さの中で、言葉の意味を回復する事を企てるのではなく、曖昧さと戯れるかのように見知らぬ路地を彷徨する事。それは文学が自明にしていた主題、プロット、文体などを徹底的に拒否する姿勢でありながら、しかし言葉というものの持つ一つの本質を描いている点で、やはり文学作品として成立している。
「物語とは物語らないことだ」という趣旨のことを誰かが言っていたが、語ること、定義づけること、意味を求めることを徹底的に拒むことで、逆説的にそこに「未決定性」というどうしようもなく文学的なテーマが浮かび上がってくるのが興味深い。
その曖昧さを、「語るべき事のないポストモダン的状況」と理解してしまうのは誤読だと思う。むしろそのような読みは曖昧さを徹底して追及したこの作品の味わいを殺し、世界に「意味」を取り戻そうとする「定義づけ」の思考法だ。むしろ永遠にクラッシュしてしまったサーチエンジンで世界を検索するように、無意味の思考と戯れるのが正しい楽しみ方だろう。
特筆すべきなのは、その戯れが筆者の卓越した理性的思考から産み出されているということだ。優秀な外科医の手さばきのように、筆者は一枚一枚定義、意味、名前を世の中からはぎ取っていく。その論理を追っていくのも楽しい。
そのように裸にされた世界で、読者が到達する結末とはいったい何なのか、それは個々の読後感にお任せする。
三谷幸喜について [映画]
ザ・マジックアワー(三谷幸喜)
あらすじ
とある港町。まるでアル・カポネのように街を仕切る顔役、通称ボス(西田敏行)の情婦マリ(深津絵里)を寝取ってしまった備後(妻夫木聡)は、命と引き替えに伝説の殺し屋「デラ富樫」を連れてくることに。もちろん探す当てもない備後は一計を思いつく。替え玉だ。白羽の矢が経ったのは売れない大部屋俳優村田(佐藤浩市)。映画の撮影と称して村田に無理難題をふっかける備後だったが、既に売れっ子の映画人気取りの村田はそこらでてんやわんやを巻き起こす。はたして備後は、マリは、村田は、ボスの魔の手から逃げられるのだろうか?
感想
そろそろ三谷幸喜の仕事についておさらいするべき時が来たような気がする。彼の代表作、と言ってもその多彩な仕事のごく一部にすぎないのだが、を並べてみると、あることに気がつく。まずは出世作「十二人の優しい日本人」、「ショウ・マスト・ゴー・オン」、「ラジオの時間」、「古畑任三郎シリーズ」、近作「有頂天ホテル」。これらに共通する物は何であるだろう。
まず一つ言えるのは、彼はパロディの作家だと言うこと。言うまでもなく「優しい」は「十二人の怒れる男」の翻案、「古畑任三郎」は「刑事コロンボ」、「有頂天ホテル」は、「グランドホテル」。さらにその作風にはビリー・ワイルダーの影響が伺える。だが彼は単に元ネタを換骨奪胎したのではない。
一つ気付くのは、ここに上げた作品が皆海外、それもアメリカの映画、ドラマを下敷きにしていると言うこと。そしてもう一つは、確かに下敷きにしてはいるが、全く別の日本的コンテクストに見事に置き直されていると言うこと。例えば「十二人」では、元ネタがナイフにまつわる言説に支配されていたのに対し、三谷は、なんとジンジャーエールという日本だかアメリカだか、はたまたアメリカナイズされた日本のコンテクストから生まれた小道具を用いている。ここに彼の巧妙な仕掛けがある。某ミュージカル劇団のように、ブロードウェイのヒット作をそのまま臆面もなく垂れ流すのではなく、大枠だけ借りてきて、細部に慎重にメスを入れ、日本向けに作り替えてしまう。天才と言うよりは職人芸だ。
次に気付くのが、彼が一種のメタシアターに強く惹かれているという点だ。「ショウ・マスト・ゴー・オン」や、今作などは、それぞれ、演劇および映画の舞台裏を描いている。楽屋落ちと言えばそれまでだが、今作は特にそれが徹底されている。
スタッフが、クレーンが、市川昆が、すっと自然にフレームに入ってくる時、私は何となく「地下鉄のザジ」のラストシーンを思い出した。キャメラを取るキャメラ、そこには深遠な映画に対する問いかけこそ無いが、有り体に言って一つのオマージュ、もしくはメタレベルでの底抜けに楽しい遊戯性がある。
「ザ・マジックアワー」で何度も繰り返される村田の好きな映画は、「カサブランカ」のラストをイメージしているのだろうか? そうだとしたらこの映画はさらに複雑な要素をはらむことになる。
あるいはギャング達が愉快な抗争を繰り広げる姿は、フィルム・ノワールの影響下にあるのだろうか。
いずれにせよ、三谷幸喜は既にあるものを、リメイクと言うよりもっと複雑に日本的文脈に置き直し、いい意味でわかりやすく咀嚼して観客に提示する。それはきわめて現代的なエンターテイメントのあり方として戦略的に正しいのだろう。一種の魔法と言ってもいい。
しかし、私は実は三谷の映画では、「笑いの大学」を評価するのである。あるいは私の知識の及ばないところで元ネタがあるのかも知れないが、あの一種の禁欲的な映画の中に、エンターテイメント性をちりばめたところに本当の三谷のオリジナリティが隠れていると思うのだ。
しかし三谷のキャメラは本当によく動く。「有頂天ホテル」ほどの過剰なワンシーンワンショットにはこだわらないが、ビリー・ワイルダーならこれほど動かしはしないだろう。もっとも、マックス・おふゅる巣ほどに洗練されたクレーン撮影を見せてくれるのなら文句はないのだが。
最後、ボスとの対決のシークエンスで、物語は若干破綻する。本物の殺し屋が登場するのはお約束としても、情けなく逃げていく後ろ姿に、本来は爆笑を誘われてしかるべきなのに、どちらかというと失笑を禁じ得なかった。
何にせよ、稀代のエンターテイナーであることは確かだが、単なるエンターテイナーで終わって欲しくない。アメリカ的なコンテクストを日本風にアレンジする卓抜さを突き詰めて、文化論的な読みもできる作品を書いて欲しい。期待を持たせられる作品だった。
あらすじ
とある港町。まるでアル・カポネのように街を仕切る顔役、通称ボス(西田敏行)の情婦マリ(深津絵里)を寝取ってしまった備後(妻夫木聡)は、命と引き替えに伝説の殺し屋「デラ富樫」を連れてくることに。もちろん探す当てもない備後は一計を思いつく。替え玉だ。白羽の矢が経ったのは売れない大部屋俳優村田(佐藤浩市)。映画の撮影と称して村田に無理難題をふっかける備後だったが、既に売れっ子の映画人気取りの村田はそこらでてんやわんやを巻き起こす。はたして備後は、マリは、村田は、ボスの魔の手から逃げられるのだろうか?
感想
そろそろ三谷幸喜の仕事についておさらいするべき時が来たような気がする。彼の代表作、と言ってもその多彩な仕事のごく一部にすぎないのだが、を並べてみると、あることに気がつく。まずは出世作「十二人の優しい日本人」、「ショウ・マスト・ゴー・オン」、「ラジオの時間」、「古畑任三郎シリーズ」、近作「有頂天ホテル」。これらに共通する物は何であるだろう。
まず一つ言えるのは、彼はパロディの作家だと言うこと。言うまでもなく「優しい」は「十二人の怒れる男」の翻案、「古畑任三郎」は「刑事コロンボ」、「有頂天ホテル」は、「グランドホテル」。さらにその作風にはビリー・ワイルダーの影響が伺える。だが彼は単に元ネタを換骨奪胎したのではない。
一つ気付くのは、ここに上げた作品が皆海外、それもアメリカの映画、ドラマを下敷きにしていると言うこと。そしてもう一つは、確かに下敷きにしてはいるが、全く別の日本的コンテクストに見事に置き直されていると言うこと。例えば「十二人」では、元ネタがナイフにまつわる言説に支配されていたのに対し、三谷は、なんとジンジャーエールという日本だかアメリカだか、はたまたアメリカナイズされた日本のコンテクストから生まれた小道具を用いている。ここに彼の巧妙な仕掛けがある。某ミュージカル劇団のように、ブロードウェイのヒット作をそのまま臆面もなく垂れ流すのではなく、大枠だけ借りてきて、細部に慎重にメスを入れ、日本向けに作り替えてしまう。天才と言うよりは職人芸だ。
次に気付くのが、彼が一種のメタシアターに強く惹かれているという点だ。「ショウ・マスト・ゴー・オン」や、今作などは、それぞれ、演劇および映画の舞台裏を描いている。楽屋落ちと言えばそれまでだが、今作は特にそれが徹底されている。
スタッフが、クレーンが、市川昆が、すっと自然にフレームに入ってくる時、私は何となく「地下鉄のザジ」のラストシーンを思い出した。キャメラを取るキャメラ、そこには深遠な映画に対する問いかけこそ無いが、有り体に言って一つのオマージュ、もしくはメタレベルでの底抜けに楽しい遊戯性がある。
「ザ・マジックアワー」で何度も繰り返される村田の好きな映画は、「カサブランカ」のラストをイメージしているのだろうか? そうだとしたらこの映画はさらに複雑な要素をはらむことになる。
あるいはギャング達が愉快な抗争を繰り広げる姿は、フィルム・ノワールの影響下にあるのだろうか。
いずれにせよ、三谷幸喜は既にあるものを、リメイクと言うよりもっと複雑に日本的文脈に置き直し、いい意味でわかりやすく咀嚼して観客に提示する。それはきわめて現代的なエンターテイメントのあり方として戦略的に正しいのだろう。一種の魔法と言ってもいい。
しかし、私は実は三谷の映画では、「笑いの大学」を評価するのである。あるいは私の知識の及ばないところで元ネタがあるのかも知れないが、あの一種の禁欲的な映画の中に、エンターテイメント性をちりばめたところに本当の三谷のオリジナリティが隠れていると思うのだ。
しかし三谷のキャメラは本当によく動く。「有頂天ホテル」ほどの過剰なワンシーンワンショットにはこだわらないが、ビリー・ワイルダーならこれほど動かしはしないだろう。もっとも、マックス・おふゅる巣ほどに洗練されたクレーン撮影を見せてくれるのなら文句はないのだが。
最後、ボスとの対決のシークエンスで、物語は若干破綻する。本物の殺し屋が登場するのはお約束としても、情けなく逃げていく後ろ姿に、本来は爆笑を誘われてしかるべきなのに、どちらかというと失笑を禁じ得なかった。
何にせよ、稀代のエンターテイナーであることは確かだが、単なるエンターテイナーで終わって欲しくない。アメリカ的なコンテクストを日本風にアレンジする卓抜さを突き詰めて、文化論的な読みもできる作品を書いて欲しい。期待を持たせられる作品だった。
演劇と言葉 [演劇]
若き俳優への手紙(オデオン座・作・演出オリヴィエ・ピィ)
あらすじ
「若者達よ、大いなる孤独を恐れるな」詩人が演劇の言葉について挑発的に語る。老女に扮した詩人は、現代の言葉を復権することができるだろうか?
感想
どことなくイヨネスコを思わせる作品。イリュージョン・コミックに比べ、こちらの方が洗練されている。ジョン・アーノルドの演技が圧巻。だが、イリュージョン・コミックについて書いたのと同じく、演劇についての演劇ではあるのだが、あまりに言葉にこだわりすぎではないか。これはむしろ言葉についての演劇であり、現代に言葉の力を復権させるための挑発である。それだけならば小説を読めばいい。メタ的なディスクールは無数に存在している。
だが、恐らくピィがこだわりたかったのは、パロールとしての言葉なのだろう。彼にとって、語るということが演劇なのであり、その言葉の過剰性こそ現代の言葉を復権させる鍵になると考えているのだろう。だがその見通しは甘い。
アフタートークで、資本主義と芸術は両立すると語っていたが、私は素直にうなずけなかった。消費と創造は簡単には両立しない。消費されるパロールを救うために、過剰に饒舌になる必要がある。その饒舌がいとわしいのである。
それを辛うじて救っているのがジョン・アーノルドの身体性だ。白塗りの化粧に、花冠。花嫁衣装。同性愛的なメタファーを駆使しながら、見事に豊かな空間を創造している。
だが、この作家の台詞の冗漫さと言ったら、もちろん翻訳の問題もあるのだろうが、イメージを羅列したような難解さ。それはそれでいいのだが、はたしてどこまで真意を伝えているのか疑ってしまう。
それに、二人芝居にしているのも気になった。若き俳優へのメッセージならば、パロールの主体は一人で十分ではないか。なぜ茶々を入れる二人目が必要なのか。
演出上の癖も気になる。イリュージョン・コミックで使った手法、階段、鏡、名札。自己模倣ではないか。そしてそれらの手法の必然性がいったいどこにあるのか。例えば鈴木忠志の演劇では、世界は病院である、というしそうを体現する象徴として車いすが出てくる。それは根本的に正しい、正しくないの問題は置いて置いて、とりあえずの論理的一貫性が存在するので、観客としては受け入れやすい。そのようなバックボーンはいったいどこにあるのか。
まあ、まだ若い作家なので、大目に見るとしても、役者に助けられた芝居ではある。
あらすじ
「若者達よ、大いなる孤独を恐れるな」詩人が演劇の言葉について挑発的に語る。老女に扮した詩人は、現代の言葉を復権することができるだろうか?
感想
どことなくイヨネスコを思わせる作品。イリュージョン・コミックに比べ、こちらの方が洗練されている。ジョン・アーノルドの演技が圧巻。だが、イリュージョン・コミックについて書いたのと同じく、演劇についての演劇ではあるのだが、あまりに言葉にこだわりすぎではないか。これはむしろ言葉についての演劇であり、現代に言葉の力を復権させるための挑発である。それだけならば小説を読めばいい。メタ的なディスクールは無数に存在している。
だが、恐らくピィがこだわりたかったのは、パロールとしての言葉なのだろう。彼にとって、語るということが演劇なのであり、その言葉の過剰性こそ現代の言葉を復権させる鍵になると考えているのだろう。だがその見通しは甘い。
アフタートークで、資本主義と芸術は両立すると語っていたが、私は素直にうなずけなかった。消費と創造は簡単には両立しない。消費されるパロールを救うために、過剰に饒舌になる必要がある。その饒舌がいとわしいのである。
それを辛うじて救っているのがジョン・アーノルドの身体性だ。白塗りの化粧に、花冠。花嫁衣装。同性愛的なメタファーを駆使しながら、見事に豊かな空間を創造している。
だが、この作家の台詞の冗漫さと言ったら、もちろん翻訳の問題もあるのだろうが、イメージを羅列したような難解さ。それはそれでいいのだが、はたしてどこまで真意を伝えているのか疑ってしまう。
それに、二人芝居にしているのも気になった。若き俳優へのメッセージならば、パロールの主体は一人で十分ではないか。なぜ茶々を入れる二人目が必要なのか。
演出上の癖も気になる。イリュージョン・コミックで使った手法、階段、鏡、名札。自己模倣ではないか。そしてそれらの手法の必然性がいったいどこにあるのか。例えば鈴木忠志の演劇では、世界は病院である、というしそうを体現する象徴として車いすが出てくる。それは根本的に正しい、正しくないの問題は置いて置いて、とりあえずの論理的一貫性が存在するので、観客としては受け入れやすい。そのようなバックボーンはいったいどこにあるのか。
まあ、まだ若い作家なので、大目に見るとしても、役者に助けられた芝居ではある。
古さと新しさ
イリュージョン・コミック(オデオン座・作・演出オリヴィエ・ピィ)
あらすじ
名声を夢見る僕と仲間で作る売れない劇団。いつものように新作「詩人と死神」を稽古していると、まだ上演もされていない芝居の劇評が新聞に載っている。批評家の絶賛を受けた僕のもとへ、ジャーナリスト、文化大臣、大統領、さらにはローマ法王までが訪れて、僕を持ち上げる。その一方で去っていく仲間達。はたして現代に演劇は可能なのか?
感想
ピアノとトランペットの生演奏、客席に座る演出家、蛍光灯を使った舞台装置、マイク。一見するとブレヒト的な芝居だが、物語はどちらかというとメタ・シアター的な趣をもっている。不条理な展開、演劇についての演劇。この芝居は演劇についての演劇である。ジョゼフィーヌ叔母さんが演技指導を受けるところ(同じ台詞を20通りに演じ分ける!「死は私の最後のなんたら、という台詞を、官能小説風に言うとかw)、最後の演劇の100の定義。
だが、こういったメタ・シアター的アプローチはいささか古くさい。例えばペーター・ハントケの「観客罵倒」だとか、和が日本の「真情あふるる軽薄さ」だとか。あまりに使い古され、そして過去の作品に比べ掘り下げ方が甘い。
そんな欠点を救っているのが、ピィの台詞術である。フランス語ネイティブではない私にはどこまで翻訳が適切なのか分からないが、少なくともコメディとしては成立しているし、達者な俳優が朗々と語れば耳を傾けたくもなる。
だが、と思ってしまう。それは演劇について語っているのではないのではないか。演劇における言葉について語っているのではないか。
確かに演劇は言葉を介したコミュニケーションである。だがそれだけではない。耳で聞くだけではない。目で見るものでもある。もっと言うと、漂うロスコの匂いから、ほとんど触覚的な雰囲気としか言いようのない崇高さまで、演劇は伝えるべきではないのか。その点、ピィの戦略は甘いと言わざるを得ない。
と思っていたところ、喫煙所で煙草を吸っていたら、これはメタシアターのパロディーとしてみれば面白いと言っている人がいた。なるほど。そういう見方もあるのか。
私の端的な結論としては、ブレヒト的な演劇を不条理に解釈し、野田秀樹っぽく動き、台詞回しは仏文チックな難解さでお茶を濁しているという感じ。
それにしても上演後のアフタートークで、ブレヒトって誰ですか?と聞いた人には唖然とした。そんなものなのか。
あらすじ
名声を夢見る僕と仲間で作る売れない劇団。いつものように新作「詩人と死神」を稽古していると、まだ上演もされていない芝居の劇評が新聞に載っている。批評家の絶賛を受けた僕のもとへ、ジャーナリスト、文化大臣、大統領、さらにはローマ法王までが訪れて、僕を持ち上げる。その一方で去っていく仲間達。はたして現代に演劇は可能なのか?
感想
ピアノとトランペットの生演奏、客席に座る演出家、蛍光灯を使った舞台装置、マイク。一見するとブレヒト的な芝居だが、物語はどちらかというとメタ・シアター的な趣をもっている。不条理な展開、演劇についての演劇。この芝居は演劇についての演劇である。ジョゼフィーヌ叔母さんが演技指導を受けるところ(同じ台詞を20通りに演じ分ける!「死は私の最後のなんたら、という台詞を、官能小説風に言うとかw)、最後の演劇の100の定義。
だが、こういったメタ・シアター的アプローチはいささか古くさい。例えばペーター・ハントケの「観客罵倒」だとか、和が日本の「真情あふるる軽薄さ」だとか。あまりに使い古され、そして過去の作品に比べ掘り下げ方が甘い。
そんな欠点を救っているのが、ピィの台詞術である。フランス語ネイティブではない私にはどこまで翻訳が適切なのか分からないが、少なくともコメディとしては成立しているし、達者な俳優が朗々と語れば耳を傾けたくもなる。
だが、と思ってしまう。それは演劇について語っているのではないのではないか。演劇における言葉について語っているのではないか。
確かに演劇は言葉を介したコミュニケーションである。だがそれだけではない。耳で聞くだけではない。目で見るものでもある。もっと言うと、漂うロスコの匂いから、ほとんど触覚的な雰囲気としか言いようのない崇高さまで、演劇は伝えるべきではないのか。その点、ピィの戦略は甘いと言わざるを得ない。
と思っていたところ、喫煙所で煙草を吸っていたら、これはメタシアターのパロディーとしてみれば面白いと言っている人がいた。なるほど。そういう見方もあるのか。
私の端的な結論としては、ブレヒト的な演劇を不条理に解釈し、野田秀樹っぽく動き、台詞回しは仏文チックな難解さでお茶を濁しているという感じ。
それにしても上演後のアフタートークで、ブレヒトって誰ですか?と聞いた人には唖然とした。そんなものなのか。
自意識の過剰(森山大道展) [絵画、美術]
東京都写真美術館にて開催中の森山大道展の覚え書き…
「ハワイ」と題された一枚の写真。そこにはサングラスをかけ、数枚の百ドル札の上に頭を載せた犬が写っている。一見ユニークでユーモラスで面白い構図の写真だが、私はある違和感を感じた。意味が過剰なのである。ここには複数の要素が互いに絡み合うこともなく平行して重ねられている。まずは被写体である犬、次に犬の目を隠す装置としてのサングラスと、隠されることによってさらに視線にさらされる犬の目。そして「ハワイ」というタイトルから易々と類推されるアメリカの象徴である百ドル札。「ハワイ」というタイトルを付けるために、犬というどこかしらアメリカの郊外生活を思わせる存在、サングラスというあまりにアメリカ的な道具立て、そして百ドル札というアメリカ資本主義という三つの要素を重ねなくては、ハワイを描けなかった森山のカメラに過剰さを見たのだ。それはまるで油絵の具をごてごてと重ねた絵が駄作であるように、写真としては対象を捉えようとしてぶれてしまっているのではないのか。
森山は「アレ・ブレ・ボケ」というキャッチフレーズでくくられる。確かに初期の森山の作品は、ほとんど何を撮っているのか分からないほどぶれてぼけている。それは土門拳らのリアリズム写真に対するアンチテーゼとして当時は機能したのかもしれない。だが私にはそれは意味の過剰にしか見えなかった。例えば映画でゴダールがやろうとしたことと比べると、森山の反逆は、確かに既成の写真を裏切ってはいるが、あれた画面は一つの対象として機能し、ブレは味になり、ボケは意味を規定することを宙ぶらりんにしているという点で、あくまで写真の技法の内側にあり、技法を越えて新しい写真を産み出すことに成功していない。私には森山の技法が、芸術家としての自意識の過剰に思えてならなかった。
ある批評家が、世界を描く作家の代表がシェイクスピアだとするなら、個人の自意識を描く代表はバイロンだと言っていた。その言い方を借りると、森山の写真はバイロン的なのである。彼の写真のブレは彼の内面のブレであり、ボケは彼の迷いの現れである。どんな写真を撮っていいのか分からないことに対する、それは逡巡であり、そして必死で表現者たろうとした結果、過剰を産んだのだろう。下手な作家ほど描写を重ねるものである。森山は描写を避けようとして描写に終始した。対象をストレートに捉える代わりに、何重にも装置を仕掛けて描こうとした。その時表面に現れるのは作家のエゴであり、自意識である。しかし芸術は常に他者に開かれねばならない。森山の仕掛けた戦略は手法ではなく、自意識との葛藤だったのではないか。
天井桟敷の人々や、新宿の歓楽街を撮って過剰な作品をとり続けた森山が、写真が分からなくなったと言い、北海道へ赴いたのは、その意味では作家の成長物語としてよく分かる話である。そこで森山は風景を何気なく撮り続けた。だが、ふとしたはずみに、貧しい子供のような物語を背負った被写体を選び、意味を過剰にする。彼は自意識を制御しきれなかったのではあるまいか。
その自意識の過剰に惹かれる人もいるだろう。だが私の心には痛いものが残った。
もって他山の石とすべし。
「ハワイ」と題された一枚の写真。そこにはサングラスをかけ、数枚の百ドル札の上に頭を載せた犬が写っている。一見ユニークでユーモラスで面白い構図の写真だが、私はある違和感を感じた。意味が過剰なのである。ここには複数の要素が互いに絡み合うこともなく平行して重ねられている。まずは被写体である犬、次に犬の目を隠す装置としてのサングラスと、隠されることによってさらに視線にさらされる犬の目。そして「ハワイ」というタイトルから易々と類推されるアメリカの象徴である百ドル札。「ハワイ」というタイトルを付けるために、犬というどこかしらアメリカの郊外生活を思わせる存在、サングラスというあまりにアメリカ的な道具立て、そして百ドル札というアメリカ資本主義という三つの要素を重ねなくては、ハワイを描けなかった森山のカメラに過剰さを見たのだ。それはまるで油絵の具をごてごてと重ねた絵が駄作であるように、写真としては対象を捉えようとしてぶれてしまっているのではないのか。
森山は「アレ・ブレ・ボケ」というキャッチフレーズでくくられる。確かに初期の森山の作品は、ほとんど何を撮っているのか分からないほどぶれてぼけている。それは土門拳らのリアリズム写真に対するアンチテーゼとして当時は機能したのかもしれない。だが私にはそれは意味の過剰にしか見えなかった。例えば映画でゴダールがやろうとしたことと比べると、森山の反逆は、確かに既成の写真を裏切ってはいるが、あれた画面は一つの対象として機能し、ブレは味になり、ボケは意味を規定することを宙ぶらりんにしているという点で、あくまで写真の技法の内側にあり、技法を越えて新しい写真を産み出すことに成功していない。私には森山の技法が、芸術家としての自意識の過剰に思えてならなかった。
ある批評家が、世界を描く作家の代表がシェイクスピアだとするなら、個人の自意識を描く代表はバイロンだと言っていた。その言い方を借りると、森山の写真はバイロン的なのである。彼の写真のブレは彼の内面のブレであり、ボケは彼の迷いの現れである。どんな写真を撮っていいのか分からないことに対する、それは逡巡であり、そして必死で表現者たろうとした結果、過剰を産んだのだろう。下手な作家ほど描写を重ねるものである。森山は描写を避けようとして描写に終始した。対象をストレートに捉える代わりに、何重にも装置を仕掛けて描こうとした。その時表面に現れるのは作家のエゴであり、自意識である。しかし芸術は常に他者に開かれねばならない。森山の仕掛けた戦略は手法ではなく、自意識との葛藤だったのではないか。
天井桟敷の人々や、新宿の歓楽街を撮って過剰な作品をとり続けた森山が、写真が分からなくなったと言い、北海道へ赴いたのは、その意味では作家の成長物語としてよく分かる話である。そこで森山は風景を何気なく撮り続けた。だが、ふとしたはずみに、貧しい子供のような物語を背負った被写体を選び、意味を過剰にする。彼は自意識を制御しきれなかったのではあるまいか。
その自意識の過剰に惹かれる人もいるだろう。だが私の心には痛いものが残った。
もって他山の石とすべし。
いい加減な… [映画]
実録・連合赤軍 あさま山荘への道(若松孝二)
あらすじ
言うまでもないでしょう。連合赤軍がいかに結成され、「総括」の名の下にリンチが行われ、追いつめられてあさま山荘事件へと発展したかの話です。
感想
いい加減な映画だ。もちろん作っている方は本気なのだろうが、細部に現代の感覚では到底容認できない感性がかいま見える。たとえば、アジテーションの口調。大河ドラマの武将じゃないんだから、もっと知的に議論できんもんかね。俳優の演技もそう。日本人かと疑いたくなる稚拙な演技と陳腐な台詞のオンパレード。この陳腐さ、俗っぽさが逆に現実なのかもしれないが、作品として鑑賞するレベルにない。冒頭のドキュメントフィルムの編集もそうだ。若松孝二はゴダールにもなれなければマイケル・ムーアすら越えられない。
肝心のベースキャンプ内におけるリンチを巡る室内劇にもいい加減さは現れている。いったいなぜ森は、永田洋子は、「総括」を強要したのか。そこにはイデオロギーを越えた人間心理の闇が広がっているはずなのに、そこに切り込むナイフを若松孝二は持たない。ただ森が怒り、永田が咎め、それだけの理由で人が死んでいく。それは作り手としては怠慢以外の何物でもないのではないか。
だが、一つこの映画のすぐれた点を上げると、いい加減なキャメラが偶然取ってしまった瞬間なのである。リンチに合い、腫れ上がった顔を見つめようと鏡を覗き込んだ瞬間、キャメラが偶然捉えた人間とは思えない表情。雪の中を行軍する連合赤軍の部隊の疲弊しきった姿。これらは意図して撮られたとは思えない美しさを持って現れる。
問題はこんな大作をきわめて低予算で取ろうとしたことにある。日本映画の資金がきちんと循環していないと言うことでもあるし、低予算なら低予算なりの取り方をすべきだったと言うことでもある。
そして、この作品は無情に長い。
あらすじ
言うまでもないでしょう。連合赤軍がいかに結成され、「総括」の名の下にリンチが行われ、追いつめられてあさま山荘事件へと発展したかの話です。
感想
いい加減な映画だ。もちろん作っている方は本気なのだろうが、細部に現代の感覚では到底容認できない感性がかいま見える。たとえば、アジテーションの口調。大河ドラマの武将じゃないんだから、もっと知的に議論できんもんかね。俳優の演技もそう。日本人かと疑いたくなる稚拙な演技と陳腐な台詞のオンパレード。この陳腐さ、俗っぽさが逆に現実なのかもしれないが、作品として鑑賞するレベルにない。冒頭のドキュメントフィルムの編集もそうだ。若松孝二はゴダールにもなれなければマイケル・ムーアすら越えられない。
肝心のベースキャンプ内におけるリンチを巡る室内劇にもいい加減さは現れている。いったいなぜ森は、永田洋子は、「総括」を強要したのか。そこにはイデオロギーを越えた人間心理の闇が広がっているはずなのに、そこに切り込むナイフを若松孝二は持たない。ただ森が怒り、永田が咎め、それだけの理由で人が死んでいく。それは作り手としては怠慢以外の何物でもないのではないか。
だが、一つこの映画のすぐれた点を上げると、いい加減なキャメラが偶然取ってしまった瞬間なのである。リンチに合い、腫れ上がった顔を見つめようと鏡を覗き込んだ瞬間、キャメラが偶然捉えた人間とは思えない表情。雪の中を行軍する連合赤軍の部隊の疲弊しきった姿。これらは意図して撮られたとは思えない美しさを持って現れる。
問題はこんな大作をきわめて低予算で取ろうとしたことにある。日本映画の資金がきちんと循環していないと言うことでもあるし、低予算なら低予算なりの取り方をすべきだったと言うことでもある。
そして、この作品は無情に長い。
「間違い」の悲劇 [文学]
THE WRONG GOODBY(矢作俊彦)
あらすじ
「私が始めてビリー・ルウに会ったのは夏至の三、四日前、夜より朝に近い時刻だった。」神奈川県警の二村刑事は酔いどれのペルー系アメリカ人と出会い、飲み友達となる。ある晩、ビリーから荷物を運んでほしいと頼まれ、酒気帯びにもかかわらず彼の荷物を米軍基地まで運ぶことになるが、ビリーはそのまま飛行機で旅立ってしまい、その後消息を絶つ。そのトランクには女の他殺死体が入っていた。事件は台湾マフィア、もとヤクザ、母親を捜す世界的バイオリニストらが絡み、錯綜を極めるが…。
感想
レイモンド・チャンドラーの名作「長いお別れ」の枠組みを借りたオマージュであり、かつハードボイルドならではのリリシズムに満ちた傑作長編。単なるオマージュに収まらないのは、マーロウの活躍するロサンゼルス以上に刺激的で国際的な街横須賀を舞台に、米軍基地、ヴェトナム戦争、アジア圏の抱える闇を縦横に描ききっているからだろう。単なる飲み友達の無罪を立証するためだけに刑事の職をなげうって事件に首を突っ込む二村の、時にシニカルな会話を堪能するだけでも読む価値はある。
米軍の闇にたかる有象無象たち。この作品の射程の長さは、ある意味マーロウのロスを越えて多国籍な街横須賀を舞台に世界の抱える矛盾にまで踏み込んでいるところに現れているだろう。
「長いお別れ」の、テリー・レノックスとの最後の別れに似てはいるが、この作品のタイトルが「WRONG」なのは、単にオマージュだからだけでなく、ビリーとの別れが男同士の理解と友情の不成立を示していると言ったらいい過ぎだろうか。二村はビリーを許すことが出来ない。それはビリーが嘘を付いていたからでも二村に真実をうち明けなかったからでもない。それをいえば二村も自分が警官であることを隠していた。二村はビリーへの友情を捨てたわけではない。だが現実に人を殺し、バイオリニストアイリーンとの関係を隠していたビリーの真実の歴史を知ってしまった以上、再び罪のない飲み友達として楽しく酒を飲むことも出来ない。それは男同士のプライドの問題と言うよりも、世界の抱える矛盾に振り回された男と、その矛盾を解決しようとした男との立場の違いとでも言うべきだろうか。二村にはビリーにアイリーンを会わせないことも出来た。だが彼は会わせずにはいられなかった。世界はマーロウの時代とは変わっている。長い別れならいつか会うことも出来る。だが間違った別れには再び関係を取り戻す可能性は残されていない。そこには世界の「間違い」が深く影を落としている。二村とビリーとの関係は幸福なものに終わることはなかった。二村はビリーを許すべきだったかもしれない。だが世界がそれを許さない。そして二村はビリーと「間違った」別れを迎えることになる。罪のない男同士の友情がもはや成立し得ないことを暴き立てて、このリリシズムに満ちた長編は幕を閉じる。
あらすじ
「私が始めてビリー・ルウに会ったのは夏至の三、四日前、夜より朝に近い時刻だった。」神奈川県警の二村刑事は酔いどれのペルー系アメリカ人と出会い、飲み友達となる。ある晩、ビリーから荷物を運んでほしいと頼まれ、酒気帯びにもかかわらず彼の荷物を米軍基地まで運ぶことになるが、ビリーはそのまま飛行機で旅立ってしまい、その後消息を絶つ。そのトランクには女の他殺死体が入っていた。事件は台湾マフィア、もとヤクザ、母親を捜す世界的バイオリニストらが絡み、錯綜を極めるが…。
感想
レイモンド・チャンドラーの名作「長いお別れ」の枠組みを借りたオマージュであり、かつハードボイルドならではのリリシズムに満ちた傑作長編。単なるオマージュに収まらないのは、マーロウの活躍するロサンゼルス以上に刺激的で国際的な街横須賀を舞台に、米軍基地、ヴェトナム戦争、アジア圏の抱える闇を縦横に描ききっているからだろう。単なる飲み友達の無罪を立証するためだけに刑事の職をなげうって事件に首を突っ込む二村の、時にシニカルな会話を堪能するだけでも読む価値はある。
米軍の闇にたかる有象無象たち。この作品の射程の長さは、ある意味マーロウのロスを越えて多国籍な街横須賀を舞台に世界の抱える矛盾にまで踏み込んでいるところに現れているだろう。
「長いお別れ」の、テリー・レノックスとの最後の別れに似てはいるが、この作品のタイトルが「WRONG」なのは、単にオマージュだからだけでなく、ビリーとの別れが男同士の理解と友情の不成立を示していると言ったらいい過ぎだろうか。二村はビリーを許すことが出来ない。それはビリーが嘘を付いていたからでも二村に真実をうち明けなかったからでもない。それをいえば二村も自分が警官であることを隠していた。二村はビリーへの友情を捨てたわけではない。だが現実に人を殺し、バイオリニストアイリーンとの関係を隠していたビリーの真実の歴史を知ってしまった以上、再び罪のない飲み友達として楽しく酒を飲むことも出来ない。それは男同士のプライドの問題と言うよりも、世界の抱える矛盾に振り回された男と、その矛盾を解決しようとした男との立場の違いとでも言うべきだろうか。二村にはビリーにアイリーンを会わせないことも出来た。だが彼は会わせずにはいられなかった。世界はマーロウの時代とは変わっている。長い別れならいつか会うことも出来る。だが間違った別れには再び関係を取り戻す可能性は残されていない。そこには世界の「間違い」が深く影を落としている。二村とビリーとの関係は幸福なものに終わることはなかった。二村はビリーを許すべきだったかもしれない。だが世界がそれを許さない。そして二村はビリーと「間違った」別れを迎えることになる。罪のない男同士の友情がもはや成立し得ないことを暴き立てて、このリリシズムに満ちた長編は幕を閉じる。
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